運はひとの努力で呼び込めるものでもなければ、つなぎ止めておけるものでもない。どこからともなくやって来て、ひとの手の決して届かないところで物事の左右を決して去っていく。
そういうもの。それだけにとても歯がゆい、悔しい思いもするけれど、運なくして何かをなし遂げられる人はいない。
運はひとの努力で呼び込めるものでもなければ、つなぎ止めておけるものでもない。どこからともなくやって来て、ひとの手の決して届かないところで物事の左右を決して去っていく。
そういうもの。それだけにとても歯がゆい、悔しい思いもするけれど、運なくして何かをなし遂げられる人はいない。
「他責」で考えがちな現象に対して、「自責」の視点を持ち込んでみると、それまではしようがないと思いがちだったことに対して、驚くほど、自分ができたはずのことが見えてくる。
「他責」で考えていると、問題の解決は他人任せになってしまうが、「自責」で考えてみると、その問題に対して、自分が貢献できる解決策がわずかながらでも見えてくる。
「不安は力なり」そう言っても、決してオーバーだと感じない。不安がなければ、こんなふうに毎日を生きてはいられないのではないか。
頭から不安を追いはらおうなどと考えずに、不安を生きる力とする道をさがしてみたい。
質素に暮らしたいとねがいながら、たくさんのモノを常に持とうとし、なくなったら買い足すことに躍起になっている。
見直す。
本当に必要か。ときどき自分に問うて、しかも買わずにすます方法はないのかという発想をともなって考えてみる。
できない理由を探すから、不可能に思える。できる理由を探していけば、不可能を可能にする方法が必ず見えてくる。
達成できないと思えてしまうのは、一つひとつの小さな目標を達成する速度が常識的だから。目標を達成するのにかける時間は、常識から計算してはいけない。
常識などは忘れて、まず最終目標をいつまでに達成するかを決めてしまう。そこから逆算し、個々の小さな目標をクリアするのにかける時間を割り出す。
寄り添って生きる家族であっても、おのおのは個で、孤である。
孤独は不幸ではない。
孤独こそが、ひとをひととして生かせる個の尊さである。
ひとりいてこそ満ちあふれる。