むらの幸福論

暮らしのちいさなところに眼をむける。

心の時間

 時計は、ひとりひとりの胸のなかにあるものを、きわめて不完全ながらもまねて象ったものなのかもしれない。

 光を見るためには目があり、音を聴くためには耳があるのとおなじに、人間には時間を感じるために心がある。

 もしその心が時間を感じとらないようなときには、その時間はないもおなじだろう。

ルポルタージュの礎を築いた松原岩五郎

 わが国のルポルタージュの礎をきずいた松原岩五郎。

 『征塵余禄』(明治29年2月19日)の復刻本を出版して16年もたつ。

 松原研究の第一人者、山田博光先生の助言がなければ、機を逸するところだった。

 先生から「松原の古書が大量に出た」との電話が入った。「30年研究しているが、こんな一挙に出ることはない」がどうするか、で電話は切れた。躊躇することなく、買った。

 手元にとってみると、いたるところ黄ばんでいる。地元の印刷会社で複写してみたが、心配していた通り、黄ばんだところが修正されていない。売り物にならない。東京の知り合いに頼んで、黄ばみを修正する措置をとって印刷した。

 体裁は原本通り文庫サイズとした。今からみてもシャレた装丁である。表紙も凝っている。

 本文は旧かなのため、現在から比べると読みずらいが、慣れてくるとすんなり溶け込める。それらをおぎなってくれる”水先案内人”が、解説としてつけた柳田泉さんの文章だ。

 時代背景から、松原の人物像、作品評まで詳しく書いてある。さすが明治文学研究の先駆者だ。今だからいえるが、この一文も、知友が教えてくれ、わざわざコピーをしてくれていたから付け加えれた。なにもかも、幸運としかいいようがない。

 山田先生の年譜も淀江時代と、晩年について補筆が加えられている。写真も遺族の協力で初お目見得のものを掲載することが出来た。

  私は、『余禄』で松原のルポに刻まれた”深さ”を知った。従軍記のため、前線の姿を記録すればいいが、松原はそこで生きている人たちの生活を訪ね、じっくりと記録する手法をとった。それはまた、人間(民衆)が時代(戦争)といかに向き合ったかを証言させている。

 30歳のときの作品である。もしかして、いまのルポを蘇生させる何かをはらんでいそうな気さえする。

 27歳でベストセラーの『最暗黒の東京』を書き、その後、31歳で『社会百方面』を、33歳で北海道をルポした『日本名勝地誌』を出している。どの作品も、視点が異なる。

 カーは、書きのこす。
 「現代の光を過去にあて、過去の光で現代を見る」

編集の地産地消

 「編集っていう作業は、かたちが見えないからボランティアよ」--ある町の町誌づくりに携わり、ほどなく経ってから担当者からこう言われたときは唖然とした。

 県内外町村の自治体誌の編集に携わるケースが多い。

 長いので6年(全国から比べると短すぎて無謀)はかかる。それ相応の実績はつんでいると自負しているにもかかわらず、自治体の町誌を受け持って10か月過ぎたとき、「編集の仕事は目に見えないから、これまでの雑用はタダね」と告げられた。空いた口がふさがらないばかりか、目の前が白くなった。

 原稿用紙の紙質から文章の統一まで、編集のイロハの細部のノウハウすべてをつぎ込んだのである。にもかかわらず、すべてが白紙になったばかりか、お金がもらえない。

 愕然。即刻、断った。

 おしなべて、自治体は、この程度の認識しかない。編集にかぎらず、原稿料も撮影代もあいまいで、寸志である。市民権を得てないのだ。

 それに比べ、優遇されているのが、デザイナーである。2、3年の駆け出しでも、いっぱしの値を吹っかけてくる。

 編集の仕事を認識してもらうためには、強引に迫ればいいが、器用な立ち振る舞いはしたくないという気持ちがあるものだから、つい言われた通りにしてしまう。処し方は、へんに職人気質のようなところがある。

 こだわるところは、ガンとして譲らないのに。商売とすれば、下手である。若い友人からは「もっと要領よく」と嘲笑される。が、器用に生きることは、とてもうしろめたいように思えて気がすすまない。

 自治体誌は、東京の専門出版社が請け負っていたが、「その地のことは、その地に住む人々が書くのが本来の姿」と先鞭をつけた。その編集にかりだされ、出版したあとも、地元の人々にいたく感銘された。

 それでは「うちでも」と名乗りをあげる自治体が増えてきた。「編集の地産地消」でしょうかね。わたしは、本来の姿にもどったと思う。もっとも面白い「調べる行為」を外部のひとにまかせていたのでは、そこに住んでいるひとはたまったものではない。

 住んでいるひとが愛着をもって、掘り下げれば親しみがわく。外部のひとが取材しても限界がある。その手助けをするのが編集者である。

 主人公はその土地のひとである。あくまでも、編集者は、黒衣である。徹底的に。おもてに出てはいけないのである。

宮本輝さんも愛用する万年筆

 チチッ、シェーン。華やかな店内の奥まった工房から、ロクロで万年筆の軸を挽(ひ)く音が聴こえてくる。ガラスで隔てられた畳一畳ほどが仕事場である。お客さんには見向きもせず、黙々と指を走らせる。

 ペン先から軸までこなすオーダーメイドの万年筆職人の田中春美さんである。

 鳥取市の目抜き通りにある「万年筆博士」は、全国に知られた手づくり万年筆専門店である。おもねりを排し、かたくななまでに個性、品質を追い求める。現在は国内外に約五千人の顧客をかかえるが、地歩を築くまでは平坦な道のりではなかった。

 「万年筆博士」の屋号が初めて看板となったのは一九二八(昭和三)年、中国東北部大連である。山本雅明社長の父で、万年筆職人だった義雄と弟の定雄が製造・販売を手掛け、一九四六(昭和二十一)年に義雄が現在地に店舗を構えた。

 田中さんが入店するのは、一九五二(昭和二十七)年。中学卒業前に父親を亡くし、経済的に高校進学が無理となり、友人の紹介で住み込みで働くことになった。
 「好き嫌い?そんなことは言ってられませんでしたね」

 温厚な顔がふいっと曇る。

 「弟子になって最初は、パフ(羽布)掛けという磨きの仕事でした。朝から晩まで、怒られたり叩かれたりしながら、回転する布製の円板に万年筆の軸なんかを押しつけて磨き光沢を出すんです。粗磨きと仕上げ磨きとがあり、二年間は毎日それだけ。辛かったのは、爪を一緒に磨くためにすり減って、爪の神経が出る寸前くらいになる」

 マニュアルはない。兄弟子の技を盗み覚えるしかなかった。
 「十年たってようやく免許皆伝となった」 というのがねじ切り。内ねじより目に触れる外ねじ、さらにキャップを締めるねじは職人の腕が問われる。

 キャップのねじは「ヨヤマ(四山)」というねじを切る。素早くキャップが締められるようにするため、四か所のどの山からねじを入れても締められる。どの山から締めてもキャップはガタつくことなく、寸分の狂いもなく本体に納まる。ねじ切りは、ロクロの動力をモーターから足踏みに切り替え、息を止めて行う。

 「まったくの勘だけを頼り」に、ヒトヤマねじで三年目、ヨヤマねじで十年目にして、初めて手掛けることができる。職人技の本領である。

 万年筆が一本出来上がるまでには、二百六十工程も費やされる。最後、「年季だけ」なのが、ペン先の研磨である。現在、ペン先は「万年筆博士」仕様を設定して国産メーカー二社に依頼。素材は14金を守っている。ほどほどの弾力、耐久性もあり、ペン先には最適な素材なのである。

 「生命」といえるペンポイント(ペン先の先端)には硬度の高いイリジウムが付着している。このイリジウムの研磨の仕方によって書き味が変わってくる。

 「ペン先の調整には全神経を集中するため、午前中の、しかも必ず力仕事の前にやります。神経を使いますから一日に一本から二本しかできませんね。めったにないですが、気が乗らなかったら止めてしまうときもあります」

 ペン先を親指の爪に当てて、かすかに力を入れて調整する。両手の親指と人差し指、そしてこの四本の指の爪は道具である。四本の爪はつねに一定の長さに伸ばし、短く切ることはない。

 今でこそ順風満帆の業容だが、転機があった。雅明社長が大学を出て、東京の万年筆メーカーで四年間営業し、帰郷して社業を継いだのが一九七〇(昭和四十五)年。当時はすでにメーカーによる大量生産ブームで、手づくり品は片隅においやられていた。メーカー品の手直しに終始する時期もあった。

「転業することすら考えた」(雅明社長)が、田中さんの技を生かして「世界に一本しかない万年筆を作ろう」と奮い立った。一九八二(昭和五十七)年のことだ。「HAKASE」ブランドの本格派オーダー万年筆を発売することにした。

 秘策のひとつに、独特の注文書(カルテ)を考案した。デザインのほかにグリップの位置、利き手、書く時に横から見た万年筆の角度と真上から見た傾斜、筆圧、筆速の項目などがある。さらに、万年筆で住所と氏名、電話番号を三回繰り返し書いてもらう重要な「筆跡鑑定」もある。

 カルテをもとに、使い手の書きクセを分析しつつ田中さんの蓄積した全技術を注いで、一本一本丁寧に仕上げられる。

 「使ってくれる人のことを思いめぐらしながら作っていくんです。例えば、職業から判断したり、来店して注文してくれた人にはその人となりまで詳しくうかがう。そういう情報を生かして作るから一本たりとも同じ万年筆は生まれてこない、ということです」
 製作期間は今で、約六か月。二年前までは十か月から一年かかっていた。

 作家の宮本輝さんは「どんな筆記用具を使うか」との読者に応え、こう記す。

 鳥取市内に「万年筆博士」という、腕のいい職人さんの手づくり万年筆の店があって、そこで一本つくったのを見せてくれたんですよ。はじめから筆圧とか、ペンの振り方とか、手癖みたいなものを全部考慮してつくってくれるから、もう手に慣れているんです。万年筆は、慣れるのに相当時間がかかるじゃないですか。それがないだけでも楽ですよと言われて、そこで注文したら、非常にいいものをつくつてくれたんです。それで、はじめ二本つくつたんですけど、もう今はそこでつくった万年筆を、軽井沢の仕事場にも置いておきたいし、それからどこかに移動する時にも持っていきたいしで、結局、全部で十本ぐらいつくりました」(『新潮四月臨時増刊宮本輝』一九 九九年四月)

 「いい加減な仕事はできない。悪い評判は良い評判より何倍も早く広まる。だから、重要な作業になると、店に来られたお客さんが声をかけてくれても返事ができない」

 凛とした口調で語る。

 「珠玉のような万年筆が欲しい」という顧客のため、時間と情熱を費やして作る。夜、ふとんの中でも、まぶたに新しい万年筆の意匠をめぐらせて倦(う)まない。つねに製作の一か月前からアイデアを練っている。

 「材料とかたちがマッチした素晴らしい出来映えに、思わず手元に置いておきたくなるようなペンもある」と苦笑する。そうした万年筆は、娘を嫁がせる親の心境になって、写真に納めて残す。
 パソコン全盛の時勢だが、全国各地からオーダーはひっきりなしである。風邪をひくことすらできない。
 朝十時から昼食をはさんで夕方七時まで工房に詰める。

 年に一回、同社が東京で行う万年筆交流会に参加する。自らが精魂込めて作った万年筆との再会と、使い手の生の声を聞くのが至福のひとときである。

 「お客さんの万年筆を見て、パフで磨いた新品のままの艶が残っていたり、艶が消えていたりすると幻滅する。使い込み、手の脂で新品とは違った艶が出ていると『やった』と思う」

 道具としての万年筆へのこだわりだ。
 「飾ってもらう万年筆ではなく、使ってもらう万年筆」への職人魂は、今ではほとんど見られなくなった民芸の精神と相通じる。
 「手づくりオーダーメイドを始めて十八年になるが、だめになった万年筆は一本たりともない。もうそろそろ、使い過ぎて壊れてしまったという声を聞いてみたい。その時が一番嬉しいだろな」

 柔らかな笑みになった。

 山本社長は、キッパリと言う。
 「IT社会だろうが、インターネットで商品は売らない。作り手と使い手の顔の見えるものづくりに徹する。世界でナンバーワンの品質と、オンリーワンの個性を作るのが夢です」

 田中さんは、その後、退職されている。

青山剛昌先生との1時間

 「ない」とあきらめていた貴重な録音テープが、本のあいだから出てきた。いまや、人気漫画家として不動の地位を築いている青山剛昌先生との取材テープである。

 そもそも、青山先生に初めてお会いさせてもらったのは、1991年6月だった。当時、27歳。週刊少年サンデーに「YAIBA」を連載中で、単行本も数冊であった。

 とはいえ、アシスタントは4人もかかえていた。「日芸」当時に、マンガ研究会に所属、大学卒業と同時に漫画家の道に。「ちっとまってて」で少年サンデー増刊号でデビュー。「まじっく快斗」を経てトントン拍子で走りつづけている。

 下積み生活はなく「ジャパニーズ・ドリーム」を実現させた若者として英文誌「パシフィックフレンド」にも紹介されたほどの勢いであった。

 当時、先生との取材は比較的容易であった。東京の知り合いの編集者を介してアポをとれば、お会いさせてもらえた。

 それから1度、10分でもとお会いさせてもらいさせてもらってからは「コナン」が一大ブレークし、まったく連絡さえ困難となった。出版社のガードがかたくなった。動向を知る手段は、雑誌と単行本になった。

 最近お会いさせてもらったのは1997年6月25日である。

 「鳥取NOW」という県情報誌での取材であった。お会いさせてもらうまでがひと苦労であった。深夜2時ごろ、担当者に電話作戦である。半月はつづいた。ようやく「快諾」のお墨付きをもらっても、お会いするまでは信じられなかった。

 難産のすえ、お会いさせてもらった。

 苦労がいっぺんにふっとんだ。担当者からは「15分から20分ていどで切り上げて」と苦言を呈さていたが、お会いさせてもらえばこちらの編集者の力量である。

 たっぷりと1時間は取材させてもらった。文章は同行した東京のライターになっているが、わたしがゴーストで書いたものである。雑誌にはよくあることである。内容は削りに削って2ページたらずで、満足のいくものではない。

 テープの採録は、担当者から「媒体はひとつ」と確約されているため、公表はできない。わたしだけの秘宝である。久しぶりに聞いてみたが、実に面白い。

「近代文学」の論客・本多秋五の名古屋時代

 本多秋五の”落ち穂拾い”をはじめて三〇年になろうか。先達の評論家のような確たる研究は、力量不足でおよばない。名古屋タイムズでの新聞記者時代、いまは亡き木全円寿さん(同人雑誌『北斗』前主宰者)の「地元・挙母に残した本多資料を探せ」との指導で、同級生らを尋ねあるくことに専念した。

 一〇数人にあった。鬼籍に入られている小学時代の同級生、羽田倉三さんには親切にしてもらった。

 「役に立てばもっていけ」といただいたのが、本多先生が挙母にのこした唯一の仕事である『挙母文化』という雑誌である。いまのところ、後にも先にも挙母に残した”活字”はこれしか見たことがない。全集にも収録されているが、実物は本多先生の手元にもなかったと聞く。

 「文学は小人婦女子の業であるなど」と題された小品がそれである。昭和二四年一月二〇日、挙母文化発行所が発行元になっている。創刊号が出たきりで、続刊されなかった。

 奥野健男さん流にいえば「世俗に屈しない清潔な頑固さ」がかいま見える。先生四一歳のときである。松山春雄「忘れ得ぬ人々」、本多秀治「青年演劇」が載っている。

 羽田さんは、小学生のころの本多少年の読書体験を、こう述懐していた。
 「五年生前期ころ、友人三人で桜井忠温の『肉弾』をひとり三三銭ずつ出しあって購入して回し読みをしたり、立川文庫豆本を耽溺していた。文庫は、担任の先生は読んでいけないと厳命されていたにもかかわらず、暇さえあれば読んでいた」

 わたしが調べていたころは、今日ほどプライバシーが厳しくないころで小学生の通信簿も閲覧できた。

 優秀な成績だった。

 態度もゆったりと落ち着きはらっていて、こせこせした所作は見られないと書いてあった。

 ほのかな恋路のエピソードをひとつ。
 「私は小学校の一年か二年のころ、四つ五つ年上のきみちゃんにホレていたのに、このときの記憶が確かでないのは、よっちゃんの方が活発で、きみちゃんがおとなしい子だったからか」(「鋼治兄のこと」)

 やがて、六年生の終わりごろ、挙母から名古屋の白壁小学校に転校、愛知県立第五中学(現在の瑞陵高校)に入学する。三、四年まではガリ勉生徒で、たまに余暇をさいてテニスに興じていたが、五年になって校友会雑誌『瑞穂』の雑誌部委員に渡辺綱雄さんや小川安政さん(胸を患い死亡)となる。

 同誌は先生と生徒が作文や随筆、小説をはじめ校内行事、スポーツ行事などの報告を載せたもので、本多先生はおもに作文を書いていたという。このなかで知り合った数人が、やがて同人雑誌『朱雀』へと発展していく。

 「中学時代の本多君は、学校の勉強ばかりしていた印象がつよい。文学はおくてで、さほど活躍しなかった。それが、校友会誌に参画するようになったころから、当時文学をかじっていたわたしと親しくなり、その”悪影響”で文学に傾斜していった。本多君を文学にさそったのは僕だ。当時からひとりの作家に打ち込んだらトコトンのめりこむタイプだった」
 中学時代の友人、故・渡辺綱雄さんから二五年前に聞いた回顧談である。

 『瑞穂』は渡辺さんが保存されていた。
 これまで全集に未収録だったものが、瑞陵高校の尽力で見つかった。

 本多先生は当時、生徒、職員から慕われていた大塚末雄校長が突如、辞任するというので自らもストライキに参加したてん末を、第一六号(大正一五年二月)に「大塚校長を送る」と題して寄せている。

 それにつけても我々は先生に対して、我々が途方もない不孝者であった事を思って悲しくも淋しく感ぜざるを得ません。運動に学問に日常の一つ一つの事が先生の御心配をわづらはした事は勿論として、特に彼の盟休事件については、非常に憂慮をわづらはし、此の吾等の敬愛措かぬ老校長をして「わしは教へ子にそむかれて、身が痩せる思ひがする」と歎ぜしめた事を思ふと、何とお詫びして良いのやら、只吾々の罪深かさ、無遠慮と軽率とを深く慚づる許であります。(『五中-瑞陵八十周年記念誌』所収)

 『朱雀』については、わたしの手元に四冊しかない。そのうち小説が三作ある。善し悪しはわからないが、第三巻第三号の編集後記に、文学に対する並々ならぬ覚悟を記している。

 久しい間の休刊も決して芸術に対してこの精進と雑誌に対する情熱の衰退を意味するものではない。…僕はもっと書くつもり が短いものになって仕舞ひました。

 「夜の日記」という六ページ足らずの恋愛小説を、最終刊には「暁闇(あかつきやみ)を凝視する」という兄・義雄を主人公に、テニスを介した心境小説らしきものを発表している。このとき、第八高校二年である。

 三年になって、石井直三郎教授が顧問となり「八高劇小説研究会」を武田満作さんとともに創設する。「自らの貧しさを知る真面目な研究をしてゆきたいのが念願」だった。「持ちよった作品の中でいゝと認められたもの」(編集後記)を校友会雑誌に発表した。

 創立二〇周年記念号(昭和三年五月三〇日発行)に、一九ページにわたって小説「動揺時代」を発表しているが、「いま読めるものはなかろう」(「八高時代の平野謙」)と三〇年後、叙述している。

 青春という「貴重な資本を投下した初めての場所」(同上)であった第二の故郷名古屋と決別し、昭和四年四月、<評論>の道へと突き進んでいく。
 たった二一年間の<新しい記憶>なのに、<井戸>はあまりにも深い。

      (本稿は『本多秋五全集』別巻二付録の「月報18」に加筆したものである)

こころのすき間

 ひとは住む場所を失っても、だれかの心の中に棲んでいられる。

 ひとの心に隙間があるのは、だれかを迎え入れるためなんだと。だから、人はいつも寂しさを感じてしまう。

 縁って不思議です。

 ひとつの円になって繋がっている。