むらの幸福論

暮らしのちいさなところに眼をむける。

従軍記者松原岩五郎の覚悟

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 明治27年におきた日清戦争は、近代日本における初めての対外戦争だった。新聞社はこぞって従軍記者を派遣、速報をしのぎあった。

 戦争の是非を問うのがメディアの役割だが、販売部数を伸ばして経営規模を成長させて「マスメディア」とするのも、戦争である。それだけに「いかに読ませて売るか」社運をかける。

 明治23年に徳富蘇峰が既存の政治党派とは一定の距離をおく「独立」新聞として創刊した『国民新聞』は、この戦争に30人もの記者を送りこんだ。

 読者の血をわかせたのが、国木田独歩の『愛弟通信』である。日本軍の快進撃に「愛弟、愛弟!」とルポの冒頭から連呼。「全編愛国の熱情・憂国の憤慨に満ち」(佐々木基一)て「戦争場裡を冷静に報じたルポというよりは、アジテーションの先行したルポであったことは歪めない。客観を報じる冷静なルポルタージュではない」(立花雄一)と定評される。至言である。

 それとは対局をなす戦争報道をしたのが、松原岩五郎であった。


戦場をさめた眼で活写

 地味ともいえる筆鋒で綴った『征塵余禄』(以下、余禄)が、それである。独歩も岩五郎もともに『国民新聞』の派遣従軍記者だった。独歩は海軍、かたや岩五郎は陸軍に従軍した。

『余禄』は前後2編からなる。前編は、戦地におもむく途中に立ち寄った釜山から大邱を経て仁川までの朝鮮半島単独旅行記である。スタンレーのアフリカ探検記を念頭に置きながら、地理・民俗から民衆の暮らしまで観察、記録している。

 後半が鴨緑江を渡って、最前線の海城にたどりつき、そこにろう城する。海城は大連と瀋陽の中間で、まわりの町はすべて清国軍の拠点であった。敵は冬将軍と清国軍。悲壮感も愛国的偏狭さもなく、戦場の実態をさめた眼でみつめている。

 兵士と一緒に前線に立って砲弾がふりそそぐなかで見たありさまが収録されている。独歩のルポと比べると、きわめて平板であるが「出色の日清戦争従軍記録といってよい」(山田博光)と評価される。

 さらに「松原の紀行文がベストセラーになったのは、それが日本人の自意識を満足させる内容だったから、ともいえよう。そこには客観性を装った記事への政治性の混入という、新聞というメディアのもつ問題点がすでに露見している」(佐谷眞木人)からだ。

木村伊兵衛さんの眼

 ムダの効用がありそうだ。

 わが国の近代写真史の最重要人物・木村伊兵衛さんは、ムダとわかっても出かけた。

 冬の秋田。

 手元も見えないほどの激しい吹雪にもかかわらず、撮影に出向く。

 仕事ができないことではムダだが、たとえ撮れなくても、「自分を厳しいところに置いて体験したことが、今後の写真のプラスになる」と語ったという。


あせらず、あわてず、仕事を楽しむ。

 真ん中をみつめて生きる。

木山捷平さんの心

 木山捷平さんが「中央」から注目されるのは、50歳をすぎてからだ。本領発揮していた64歳のとしに、がんでなくなる。反骨をひめながら、飄々たるユーモアのある文章は心をうつ。

 飄々淡々としているようにみえて、腰のすわった処世はできるものでない。安岡章太郎さんだと思う。「木山さんってのは、天才だぜ」と評したのは。

 小説、セッセエのたぐいは読んできた。詩ははじめてだ。「自分の体験を記してある」(井伏鱒二)ので、心にとろけるように入る。

 五月!

 ふるさとへ帰りたいのう。

 ふるさとにかへつて

 わらびとりに行きたいのう。

 わらびとりに行つて

 谷川のほとりで

 身内にいつぱい山気を感じながら

 ウンコをたれて見たいのう。

 ウンコをたれながら

 チチツ チチツ となく

 山の小鳥がききたいのう。
         (ふるさと)

 ええのう。24歳のときの作品だ。ユーモラスにうたう。木山さんの流儀だ。


流儀をもつ作家、詩人が少なくなっただけに滋味ふかい。

 わかりやすく書くことの難しさを再認識した。

戦争をさめた眼で活写した松原岩五郎

 明治27年におきた日清戦争は、近代日本における初めての対外戦争だった。新聞社はこぞって従軍記者を派遣、速報をしのぎあった。

 戦争の是非を問うのがメディアの役割だが、販売部数を伸ばして経営規模を成長させて「マスメディア」とするのも、戦争である。それだけに「いかに読ませて売るか」社運をかける。

 明治23年に徳富蘇峰が既存の政治党派とは一定の距離をおく「独立」新聞として創刊した『国民新聞』は、この戦争に30人もの記者を送りこんだ。

 読者の血をわかせたのが、国木田独歩の『愛弟通信』である。日本軍の快進撃に「愛弟、愛弟!」とルポの冒頭から連呼。「全編愛国の熱情・憂国の憤慨に満ち」(佐々木基一)て「戦争場裡を冷静に報じたルポというよりは、アジテーションの先行したルポであったことは歪めない。客観を報じる冷静なルポルタージュではない」(立花雄一)と定評される。至言である。

 それとは対局をなす戦争報道をしたのが、松原岩五郎であった。

 地味ともいえる筆鋒で綴った『征塵余禄』(以下、余禄)が、それである。独歩も岩五郎もともに『国民新聞』の派遣従軍記者だった。独歩は海軍、かたや岩五郎は陸軍に従軍した。

『余禄』は前後2編からなる。前編は、戦地におもむく途中に立ち寄った釜山から大邱を経て仁川までの朝鮮半島単独旅行記である。スタンレーのアフリカ探検記を念頭に置きながら、地理・民俗から民衆の暮らしまで観察、記録している。

 後半が鴨緑江を渡って、最前線の海城にたどりつき、そこにろう城する。海城は大連と瀋陽の中間で、まわりの町はすべて清国軍の拠点であった。敵は冬将軍と清国軍。悲壮感も愛国的偏狭さもなく、戦場の実態をさめた眼でみつめている。

 兵士と一緒に前線に立って砲弾がふりそそぐなかで見たありさまが収録されている。独歩のルポと比べると、きわめて平板であるが「出色の日清戦争従軍記録といってよい」(山田博光)と評価される。

 さらに「松原の紀行文がベストセラーになったのは、それが日本人の自意識を満足させる内容だったから、ともいえよう。そこには客観性を装った記事への政治性の混入という、新聞というメディアのもつ問題点がすでに露見している」(佐谷眞木人)からだ。

 平成の世、従軍記者は必要なくなってきているのだろうか。

樋口一葉を師と仰いだ田中古代子

 大正期に大阪朝日新聞懸賞小説で入選し、将来を嘱望された女流作家がいた。 田中古代子(1897-1935)で、非命にたおれた38年だった。

 いつ、どこで、どのようにして文学に開眼したのかはしらない。
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 小説を書き、詩を書き、随筆を書き、そしてそれは東京へと結びついていた。だが、上京したときは創作意欲、体力とも萎え、ふくらみかけたがシャボン玉のようにしぼんだ。

 一篇の作品にであい、そこから作家の魂をさがし求めている。

 わたしが編んだ『田中古代子詩集 暗流』(1992年1月1日)の詩片には、国木田独歩の現実的浪漫主義の影響がかもしだされる。

 文学の師とあおぎ、手本としたのは樋口一葉だったが、日ごろの愛読書は独歩の作品だったことからすればうなずける。

 代表作「諦観」(あきらめ)を読む。

 みずみずしい弾力がある。生の矛盾や、悲哀を日常の小事から書き進めている。
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 衆目の評価で、有島武郎大仏次郎も力業を期待した大きさがうかがわれる。

 随筆「二種の夢と私の存在」は、女性として生きる葛藤を描く。


「人魚のように躍動して家庭の凹地から人間の地平線の上へ出たい」

 としながらも、


「裁縫、洗濯、足袋の鼻緒の修繕も、喜ばしい使命としてふみにじりたくない」

 と。

 もっとも充実した26歳のときだ。

 彼女を形容して自由奔放、モダンガールと、のちになっていわれたが、一面だけであろう。

 ひたすら自分に正直に表現した覚悟に惹かれる。小説を書く、ということに多くのひとは「自由」のイメージをもつが、近代の芸術家たちは、みなとても不自由であった。

むのたけじの遺言

 『解放への十字路』から、むのの解くジャーナリズムを考える。

 もともと、この題名は『解放』ではなく、『革命』だと、むのの奥さんから生前聴いたことがある。

 ジャーナリズムの本来の任務は、歴史の記録者であり、証言者である。歴史の主体は民衆であるから、報道が依拠して立つ場は、支配の側に立つか、支配されている側に立つか、この選択だけである。

「ありもしない公正中立や客観報道への迷信を壊さない限り、日本の報道は生きてこない」

 第3章。「400年来の呪縛を断とう」と題されている。豊臣秀吉が創始した日本型支配の構造が現在にまで尾を引いていることを、「戦争を裁かないままの戦後」を例にして論証し、その支配構造を「<知らせない>→<はぐらかす>→<こらしめる>という三段階の使いわけと組み合わせ」と規定したうえで、「スリカエ」方式と命名する。

 ジャーナリズムの本来の機能が記録であるかぎり、歴史の主体である民衆はひとりひとりが真の意味でのジャーナリストになることが可能である。


「要求されているものは、状況の中に一人称の主語をぶちこんで皮をはぎ肉を破って、状況の骨をえぐりだす認識の作業だと私は考える」

 むのはこう書く。