むらの幸福論

暮らしのちいさなところに眼をむける。

まん丸の小石

 ひまで清流をながめていたら、小石に、なぜかひかれだし、拾っている。目的なぞ、ない。ただ、何気なく、である。「何げなく」という、あやふやなフレーズが好きである。じぶんの性格が、どっちつかずにあるためかもしれない。

 新聞記者のころは、正義感をふりかざしていた。良かれと、おもっていたので後悔はない。リタイヤしてみると、気恥しさがのこる。

 日本海のおおうなばらの波打ち際まで行って、小石を拾うと、まん丸いかたちをしたものが目立つ。上流は四角いゴツゴツした小石ばかり。小石も、もまれると、丸くなる。何気なく丸いほうが、やすらぐ。

忘れられない覚悟のはなし

f:id:munosan:20161211150550j:plain

 あたっているか、間違っているか、わからない。ネットをかけめぐる話しで「ホッと」心をなでおろすことって、ないような気がする。必要がなければ、パソコンはつけない。スマホはない。

 ネットをながめるひとは、どれだけ本を読んでいるんだろう、といぶかる。こだわりがあって、手もとでいつも見ていてイメージのふくらむ活字(本)のほうが、心をなでおろす。白か、黒か直截的な雰囲気がただようネットだが、活字には、あいまいさがある。なんとも、ファジーさがすきだ。

 作家の五木寛之さんが言っていた。「小説は総合芸術である」。言い得ている。松本清張さんの講演を聴いたとき、「ぼくは喋りはきらい。吟味して推敲した活字には全体重をかけている。いのちがけといっていい」と覚悟を話した。

 いまは、お笑い芸人さんの、しゃべくりが幅を利かせる。

 口達者がいいのか、活字がいいのか、それぞれである。それぞれが選べる時である。
 松本清張さんのひとことは、いまでも残る。

野球小僧中居正広は、スポーツジャーナリストの域に達した

 「プレミヤ12」での中居正広のスタンスは、爽やかだ。しゃべりが上手い。「間」のとりかたは、天性のものだ。野球小僧から、ジャーナリストの眼をもった存在になった。

 選手、スタッフから信頼されているんだろう。ジャーナリストの資質で、もっとも大切なのは信頼である。コミュニケーションの作法では、敷居が低いことが必須である。「親しき仲にも礼儀あり」という言葉は真実だと思う。

 親しくなってどんどん馴れ馴れしくなり、お互いのプライベートな領域を侵したり、必要以上に利害関係を持ったりすると、親しくなったがために、親しさを失うことになる。

 野球のみならず、東京2020に輪を広げるだろう。



 

すーっと、いなくなる

 気温5度。朝ごはんをすませ、散歩していた。遠方のほうで、見なれない婦人が農作業している。近づいて「おはようございます。朝から、精が出ますね」と声をかけると、「義父がなくなり、余暇ができたもので」と。

 そっか、先日亡くなったところのお嫁さんだった。集落のひとの話では、72歳で再婚したらしい。熟年結婚か。

 ぼそっと言った。「人って、すーっと、いなくなるんですね、存在しなくなるんですね」と。肺炎をこじらせ、10日も高熱が続いたようだ。懸命の介護だった。ひたいには、汗がにじんでいた。

 「来春、玉ねぎができたらあげるよ」。農作業は手慣れたようだ。

きわだつ純白

f:id:munosan:20161122151706j:plainf:id:munosan:20161122151602j:plain

 いちだんと冷え込んだ今朝。4度だった。冬がちかい。昼すぎになると、陽光が降り注いできた。

 急いで洗たくをする。合間に裏庭に出てみると、サザンカが咲き誇っていた。純白。やわらかな花びら。しなだれ落ちそうで、そっと差しのべてしまいそうになる。粉雪みたい。

 今季は、白色がきわだつ。幹の根本に雑草を山のように盛ったのがよかったのかな。ひと手間の大切を、また、感じる。

 ひとにも、ひと手間、ひと手間、さらにひと手間、何げなくかければ、深まるだろうね。


 

 

 

安堵する「じか」の声

 だれしも、幸せになりたくて、安心したくて、愛し、愛されたくて、受け入れられたいと願っている。

 必死にもがく。

 いかように本心であれ、恥ずかしくてなかなか言いだせず悶々としていても、キチンと眼を見て伝えなければ、届かない。

 声が「じか」に触れ、眼の前のあることが、一番安心する。コミュニケーションでは、「じか」こそ、もっとも大切な呼吸である。子どもは「じか」の世界で生きている、所以である。

朝のひととき、自分と向き合いたい

 季節のめぐり、一月のめぐり、一日のめぐり。その一刻、一刻に多彩な彩がある。音があり、匂いがあり、感じがある。

 黙って五感に聴き入って澄ましながら、朝を迎える。

 「小さな庵を心のよりどころに、世の天災に思いを巡らせた鴨長明のように、一日に五分でいいから沈思黙考する時間を持ってほしい。この危機に立ち向かうには、一人ひとりが内面と対峙するところから始めるしかない。そう思っています」

 新聞の文化面に載っていた染織家・志村ふくみさんの言葉である。慈愛にあふれている。いつのころからか志村さんの本は、いつもそばにおいている。心におとす文章には赤い線をひく。もうすこし大切な詞は和紙の手製本に書き留める。

 80歳をすぎてドストエフスキーを読みこんだエッセーを発行。またリルケの難解な作品を読解した本もだした。「10年以上かかって、やっと少しリルケが分かった」。

 持続力は、長距離ランナーのようだ。