むらの幸福論

暮らしのちいさなところに眼をむける。

野の哲学者・内山節さんの上野村へ

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 遠かった。

 友人に同行してもらい、片道12時間かけて群馬県上野村に出向いた(2003年8月9日)。哲学者の内山節(たかし)さんに会うためだ。

 アポの電話をする前までは、内心ドキドキ。会ってもらえるとは思わなかった。が、電話で用件をつたえると、半日ならいいだろうと承諾してもらえた。

 当日は台風10号とかさなり、台風の進路とともに、上野村に着いた。村は道路が未整備。国道でもクルマが行き違いできないほどであった。

 帰路、清里奥村土牛美術館に立ち寄ったりと楽しかった。佐久総合病院も見学するはずだったが、カーナビが案内してくれなく、しぶしぶ高速道路へと急いだ。

 内山さんの取材は、情報誌のインタビューが主目的だった。お会いして差し出された名刺には肩書がない。名前が真ん中にデンとあり、左下脇に仕事場と上野村の住所がつらねてあるだけ。それと紙が今流行りのペラペラでなく、旧来の厚紙である。

 聞いたはなしを帰ってからテープ起こしをしてみて名刺に肩書のないことが分かった。

 県立図書館にある本はすべて読んだ。膨大な著作である。でも、腑抜けた脳には浸透しない。理解できない。深みにはまりこんだ。原稿がはかどらない。聞き屋の無能さをくやんだ。

 存在論、労働論、自然哲学、時間論から今では森林のエッセイ、山里の暮らしを紡いでおられる。達意の文で、職業作家や新聞記者など足もとにもおよばないほどうまい。語彙がはんぱでない。

 生きかた、立ち振る舞いが文章ににじみでている。

 『自由論』(岩波書店)にくびったけになった。フィールドの広さと歴史観の深さ、読書量の膨大さ、のどれをとっても一級品である。