むらの幸福論

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≪連載≫哲学者内山節さんと対話 [上] フリーターの多数派は安定雇用を求めつつ就職先がないゆえのフリーター

 
 袋小路にはいった労働環境。哲学者として、体験を踏まえながら鋭い問題提起をされる内山節さんは、これからの社会は「職人の時代へ伝統回帰する」と説く。

 企業も「職人の倫理で働くことを許す組織は生き残る」と話す。フリーターニート、就労意識など幅広い分野について聞いた。

 ――今日、学校を出ても仕事のない若者やフリーターが増加し、歯止めのかからない状況です。この現状をどのように分析されますか。

組織に属して仕事することが良いのか感じる人も・・・

 内山 フリーターの増加は、戦後の安定社会が変わっていく過渡期現象として起きた。企業でも団体でも、組織が大きくなっていく時には、新しい部門が派生し、役職もふえる。賃金も安定していた。

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 今日では、賃金は上がるより下がる傾向で、雇用力ットも進み、身分保障もなくなってきた。社会が縮小ぎみになっていく時は、企業や組織が持っていた問題点が、モロに出る。そうしたことが見えているから、組織に属して仕事をすることが良いのかな、と感じる人もふえる。

 ただ、フリーターになっている人たちの多数派は、安定雇用を求めながら、就職先がないがゆえにフリーターになっているというのが現実です。ですから、社会政策としては、働ける場を確保していかなければいけない。

 ――歯止め策の妙案は?

 内山 ないでしょう、雇用量が増えないわけですからね。雇用を増やす時も、賃金、身分保障の両面で自由のきく弾力性のある雇い方をしたいのですから。

 ――若者の意見として、受け身になるのではなく、自分たちが雇用を生み出すためにチャレンジすることが必要ではないかという考えもありますが。

 内山 何らかの意図があってフリーターをやっている人たちもいるが、圧倒的多数は、旧来型の雇用で「望んだ先が欲しいが、なかった」ーーこれが8割方を占めている。

 ――職業の手段としての教育が、単なる就職のための学歴以外の何ものでもなくなったと指摘されていますが。

 内山 要するに、教百の役割が根本的におかしくなっている時期なのです。日本の歴史でいえば、1950年代ぐらいまでは、大学まで進学する人は量的には圧倒的に少なかった。その人たちは、社会階層としてエリートになっていき、責任が問われたが、60年代に入ってから大学が一気に大衆化していく。

 そうすると、エリートの責任などということは考えなくなってくるし、また大学を出てもエリートにはならなくなってくる。その結果、大学が就職予備校化していった。
 今は、その就職予備校に行ったはずなのに就職できない。

 この先、大学とか高校まで含めて、教育は何のために必要なのかを考えなければならないでしょう。

 ――高校生の場合ですが、学校から職場へ移行する従来の就職システムを、変えることは可能でしようか。

 内山 学校を卒えて就職する人の転職率、仕事を辞めてしまう率が一番高いのは高卒、中卒です。中卒は、3年間以上同じところに勤めていることはあり得ないというぐらい、定着していない。昔だったら、中卒の魅力のある仕事もあった。例えば職人的な仕事。ところが、そういうものがなくなってしまって高卒、中卒の魅力ある仕事がない。

 知人が、高校の先生をしているのですが、20年前でも、就職先として求人してくるのは、数社しかなく限られていた。
 昔は、大学に行ったら、つまらない仕事しかないよ、といういい方もあった。事務職の仕事に就くよりは手に職をつけて、自分でモノをつくった方がずっと面白いという人たちがいて、それが一面の真実だった。

 手に職をつけるのに、丁椎で入って、親方のもとで修業していく。それは大卒の人がやってもできないわけではないが、大卒でそこに入っていくのはハンディがあった。というのは、片方はすでに4年も7年も修業しているのに、ゼロからやらなければいけない。

 毎日机で勉強ばかりやっていると、体で覚えていくことが苦手になってしまうから、その面でも中卒とか高卒の方が有利だった。

 そうした仕事が今では消えているから中卒、高卒で働く人たちにとってみれば、希望の仕事がない。では、自分で仕事を起業したらどうかといっても、その訓練がない。昔ですと教育を受けていなくても、自分の家の近所に仕事の見える世界があった。

 近所のおじさんが畑を耕していたり、鍛冶屋のような仕事をしている人がいたり、仕事が見えていたから、ああいう仕事をしてみるのもいいかなということもあった。今は仕事が見えない。

アメリカは働くことは、ストレートに金、出世のため

 ――フランスでは、普段通っている大学は就職のために役立たない。就職のためには、夜みんな専門学校に通って、遊ぶ暇もないと書いておられましたが、職業選択の自由を与えても就労の保障はなかった。となると、先生の専門の日本と外国の労働観は、学生にとっては大きく異なるのでしょうか。

 内山 日本と外国という比較は正確ではなくて、例えば日本とアメリカとか、日本とフランスとか、日本とドイツとか、というふうに比較しないとうまくない。(アジアとかアフリカはよく知らないが)なぜなら社会ごとに、歴史的に形成されてきた労働観があるのですから。
 アメリカでは、働くことはストレートに金のため、出世のため。日本も戦後に、そういう雰囲気が入ってきたが、日本の労働観はそれだけでは“面白くない”わけです。働くことによって自分の技が身につくとかで、自分の労働がどこかで社会に貢献していることがぼんやりとでもいいから見えないと、日本では満ち足りた労働にはならない。

内山 ヨーロッパの場合は階層がたくさんあり、階層ごとに労働観が違う。エリート的な人たちは、自分の考えている理念を社会化することを夢に描いている。もっとも現実には結局資本主義社会ですから、自分の理念といっても企業業績を上げることになってしまうのですが。
 労働者は、労働のなかで主導権を発揮する手段が奪われている階層ですから、労働は生活のためとストレートに出る。
 日本と比較的似た人と労働観を持っているのは、職人です。職人は結構多い。例えばフランスでもドイツでも古い景観を残している。あれを維持していくメンテナンスだけでも、職人がたくさんいる。そういう人たちは、自分の労働がまちを守り、地域社会を支えていることに喜びを感じている。

 ――パリの郊外に出られ、ホテルに泊まった時、地元の子どもたちは懸命に手伝いをしていたそうですね。

内山 むこうの子どもたちは、親のお手伝いを本当によくしますが、それは手伝いというよりも、役割を持つことで社会の一員になるという育てられ方をしているということでしょう。

 ――日本では、子どもたちに役割を与えていない?

内山 そう。日本の場合、子どもに負担を与えないのがいい親だと考えている。小さい時から役割を与えることをしなかった。むちゃくちゃな負担を与える必要はないが、あなたはこの役割を担って我が家を支えている、みたいな家庭教育の仕方をしていない。戦前は多くの家ではやっていたのでしょうが。今は、そういう役割を与える暇があったら勉強しなさい、となる。(つづく)