「底辺生活」をあぶりだすルポは、いまでは珍しいないだろう。
しかし、明治30年ごろに、その出自はあった。松原岩五郎がかかんに挑んでいる。
貧民の子弟が環境の悪いところから悪の道に転落していく因果関係を追求する。
<親は無勘弁に子を産み、子は無勘弁に成長し、成長したるは小児は亦親となって無勘弁の子孫を作る。・・・世々代々、無勘弁の当類を作り、社会の下層に無勘弁者を繁殖せしめ>
と、時代のさまを書く。
かと思えば、横浜の南京町の猥雑な情景をつたえる。
「晩商」といわれる暖簾師、旗師、見世物師など、「正直なる品を商わざるちょき商人」の風俗をもあぶりだす。
明治の東京を<文明>と<暗黒>の両極からとらえている。
なぜも、執拗に負性に注目したのか。
<文明>の恥部、不潔でうとましい世界として排除されていたスラム街は、まさにそれが曖昧でとらえがたい空間である。
「動物都会」のかくれた<中心>をかたちづくっていたわけである。食べ物のイメージを核にとめどなく増殖する記号が、<文明>によそおわれた東京の表層を生気づけているのである。
松原が引き受けようとしたのは、それまでの文学者や新聞記者が目をそむけてきた都会のなかでも「動物都会」がその体内にかかえている<暗黒>の恥部を開いてみせることだった。
今日では、ややオブラートにつつみこんでさえいる。内実は、なんら変わっていないかもしれない。