むらの幸福論

暮らしのちいさなところに眼をむける。

限界集落を歩いて7年。「したり顔のものはいらん」

 互助がむずかしくなった里山集落の老いを、だれが支えるのかーー。おぼろげな自問からはじめた限界集落歩き。実態を聞き書きして、7年目をむかえた。

 住んでいるところも、里山。戸数50戸に満たない。市街地からタクシーで、往復1万円をこえる。小学生は、たった5人。中学生はいなく、高校生が2人。

 限界集落”化”することで、何がうしなわれるか。

 神楽が消え、ココロの支えをうしなう。山野が荒れ、美しい風景が荒廃する。住んでいるひとの豊かだった感性も、喪失する。ムラの言い伝えも途絶える。

 人工林も放置され、保水力がなくなる。渇水、水害が多発するようになる。下流の民、漁民にも打撃をあたえる。

 はなしを聞くにつれ、袋小路にはいるのは、いつものことだ。コトが広範囲で縦割り。個人レベルでは、ムリ。

 でも、聞く。

 ただ、聞く。

 ただ、歩く。

 ふだんの暮らしで切実なのは、「ライフミニマム」である。

 歩いて生鮮食料品が買え、年金がおろせ、預貯金ができ、荷物が送れる機能を併せ持つ小さな拠点の整備だ。

 空夢がある。
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 ムラには公民館がある。そこを出前出帳式の郵便、金融、医療などの機能を集約。暮らしを支える拠点として確保する。

 職員は、役場の退職組。事務作業は手慣れたものだ。ムラの寄合場ともなる。孤立しがちな高齢者も集える。

 歩いていて、集まる場のないことに、痛感する。しゃべり場は道ばた。雨、雪のときは、家に閉じこもったきりだ。

 住むひとが住むところを<やる気>にさせる仕組みづくりが求められている。と、言うは簡単だが、リーダーになりたがらないのも、ムラに脈々とながれている<血>である。

 町は資本主義社会だが、ムラは依然として封建主義社会のままだ。

 大雪でも、隣りの雪はほったまま。手伝わない世上。

 「互いを支え合うココロがなくなったムラは亡ぶ。したり顔のものはいらん」

 ムラをながく率いてきた古老の警句だ。

 その警句に耳をかたむけるひとは、いない。

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