むらの幸福論

暮らしのちいさなところに眼をむける。

おばあちゃんが語った大正の息吹

f:id:munosan:20150212124147j:plain
f:id:munosan:20150405115424j:plain
 一つの生命が、生きて、何かをし、そして死んでいった。

 その人の果たした何かはーーそれすらわからない場合もあった。何かのまったくつかめない人もあった。

 記録というものは、たぶん、そういう生命に呼びかける手段にちがいない。そう思っている。

 一つの生命の奥の深さは滅多にわかるものではない。わかるような気がするだけである。わかるような、というのはあいまいだが、どうにもならない。

 わかるようなと思ったあとで、一切はくるりとひっくり返ってしまう。近づいた人影は、今度は極度に遠のいてしまう。見失ってしまう場合だって一再ではない。少し恰好よく、わかったような顔をしてみたって仕方がないのである。
 
 長い時間話し合った。

 語りを粉飾せず、絵で語らせるようにとの考えで、一致した。

 一話聞くのには、休みを入れながら約3時間たっぷり。話し手の意図をぞんぶんに聞き出せ、文字に記録したかは、いまだに読み返しても自信がない。