むらの幸福論

暮らしのちいさなところに眼をむける。

失ってわかる平凡の価値

 三寒四温とはいえ、昨夜は冷え込んだ。仕舞い込んでいた湯たんぽを、また、取りだした。ここ10年、湯たんぽの恩恵にさずかっている。

 起きてみると、風はつめたいものの久しぶりのお日さま。ちぢこんでいた土も、ほっこりしてうれしそうだ。

 サクラは、まだ持ちこたえている。勁い。

 4月がはじまったというのに、生活は、スロー。かけがえのない1日にしなければいけないが、とん挫している。

 このところ、何をなすべきかではなく、何をすべきでないかを黙考している。

 何をなすべきかを語る言葉は、果敢な言葉。

 何をなすべきでないかを語る言葉は、留保の言葉。言葉を走らせずに、立ちだまらせるのである。

 時は春、

 日は朝(あした)、
 
 朝(あした)は七時、

 片岡(かたをか)は露みちて、

 揚雲雀(あげひばり)なのりいで、

 蝸牛(かたつむり)に這(は)ひ、

 神、そらに知ろしめす。

 すべて世は事(こと)も無し。

             ロバート・ブラウン「春の朝」

 日常がすべてであるような時代の特徴は、むしろ特徴がないことである。

 何が大切かが見えにくい。

 何の変哲もない平穏である「ありふれている」ことは、失ってわかる。

 走らずに、立ちどまる。