むらの幸福論

暮らしのちいさなところに眼をむける。

編集の地産地消

 「編集っていう作業は、かたちが見えないからボランティアよ」--ある町の町誌づくりに携わり、ほどなく経ってから担当者からこう言われたときは唖然とした。

 県内外町村の自治体誌の編集に携わるケースが多い。

 長いので6年(全国から比べると短すぎて無謀)はかかる。それ相応の実績はつんでいると自負しているにもかかわらず、自治体の町誌を受け持って10か月過ぎたとき、「編集の仕事は目に見えないから、これまでの雑用はタダね」と告げられた。空いた口がふさがらないばかりか、目の前が白くなった。

 原稿用紙の紙質から文章の統一まで、編集のイロハの細部のノウハウすべてをつぎ込んだのである。にもかかわらず、すべてが白紙になったばかりか、お金がもらえない。

 愕然。即刻、断った。

 おしなべて、自治体は、この程度の認識しかない。編集にかぎらず、原稿料も撮影代もあいまいで、寸志である。市民権を得てないのだ。

 それに比べ、優遇されているのが、デザイナーである。2、3年の駆け出しでも、いっぱしの値を吹っかけてくる。

 編集の仕事を認識してもらうためには、強引に迫ればいいが、器用な立ち振る舞いはしたくないという気持ちがあるものだから、つい言われた通りにしてしまう。処し方は、へんに職人気質のようなところがある。

 こだわるところは、ガンとして譲らないのに。商売とすれば、下手である。若い友人からは「もっと要領よく」と嘲笑される。が、器用に生きることは、とてもうしろめたいように思えて気がすすまない。

 自治体誌は、東京の専門出版社が請け負っていたが、「その地のことは、その地に住む人々が書くのが本来の姿」と先鞭をつけた。その編集にかりだされ、出版したあとも、地元の人々にいたく感銘された。

 それでは「うちでも」と名乗りをあげる自治体が増えてきた。「編集の地産地消」でしょうかね。わたしは、本来の姿にもどったと思う。もっとも面白い「調べる行為」を外部のひとにまかせていたのでは、そこに住んでいるひとはたまったものではない。

 住んでいるひとが愛着をもって、掘り下げれば親しみがわく。外部のひとが取材しても限界がある。その手助けをするのが編集者である。

 主人公はその土地のひとである。あくまでも、編集者は、黒衣である。徹底的に。おもてに出てはいけないのである。