聞き手の妙味
大学を出て新聞記者になって、聞き手と話し手という仕事が確立した。
40歳で、組織を離れた。一平卒になった。肩書きがなくなった。
フリー編集者。
誰も見向きもしないと思いきや、独立経営になって26年たつが、仕事のやり方はまったく変わらない。
聞き手と話し手をつなぐのは、信頼という目にみえない危うい関係しかない。目にはみえないが、あるときは、お金に結びつく。無から有を産む。
ぼくの半生は、信頼で仕事をしてきた。振り返ると、そら恐ろしい。
信頼がなければ、とっくに埋没して死していた。
信頼がなければ、文章も、ただの紙切れだった。
信頼とはなにゆえなのだ。自問自答するが、言葉には出せない。辞書をひもとけば、意味合いはわかるが、それは辞書だけの答えである。
廃業した手漉き紙漉き屋さんから、電話があった。
出向くと、仕事場に、最後にすいた画仙紙と、紙をすくときの簀(す)がおいてあった。簀は、代々受け継がれてきた「生き証人」である。いわば「形見」だ。
「これをもらって」と主人が言った。
「生きてきたあかしは、大切に保存してください」と、聞き手。
「いや、いつも仕事を見続けて応援してくれたお礼です」と主人が返す。
30分ほど、やりとりした。
聞き手が、もらった。
信頼が結んだ結果である。
話し手と聞き手という関係は、まだ続く。
聞き手となって40年すぎた。