むらの幸福論

暮らしのちいさなところに眼をむける。

かけがえのない一冊に出あえれるだろうか

 宮澤賢治も、中原中也も、いきているときに出した詩集は、一冊だけだ。よくしられている詩人だからといって、何冊も残しているわけではない。  

 たった一冊。

 宮澤賢治の「春と修羅」は、発行部数千部。売れたのは数冊だった、という。中原中也が渋谷の古書店で「春と修羅」をみつけた。内容にぎょうてんし、数冊買いこむ。友人にくばったエピソードがある。

 かずが少なくても、受け取るひと、読むひとが、かならず、どこかにいる。

 高橋たか子さんの「続・言葉について」に響く一節がある。

 「美しい文章とは、まず、命が言葉の背後にびっしり張りつめていなければならない。ということは、作者が書いているその時の一瞬一瞬の命を、一つ一つの語に充填しながら書くということ。そうならば、使い古された表現を使うなどありえない。自分が一度使ったものさえ、使い古しになる」

 ひととの出逢いが限られているように、一生のあいだに読める本にもかぎりがある。かけがえない一冊にであえれるだろうか。