むらの幸福論

暮らしのちいさなところに眼をむける。

アシックス創業者鬼塚喜八郎の気概

 鬼塚さんには、人との結びつきを大切にする人柄がにじんでいる。戦死した友人の遺言で養子入りし、旧姓「坂口」から「鬼塚」になったのも、もとをたどればそうした人柄からである。離れて半世紀以上がたつ故郷・鳥取の恩師や旧友たちのことを語り始めると止まらない。
 鳥取は「心のなかの一部」という。機会あるごとに帰郷する。帰郷して必ず会うのが小学校時代の恩師である。鳥取一中に進学したが、冬になると雪のため自宅から通学できず、小学校の先生だった恩師宅に下宿させてもらったことは生涯忘れることができない。
 「そのとき先生は新婚さんで思えばずいぶん迷惑だったろうなあ」
 照れ笑いする。
 受験を控えたころ親身に勉強をみてもらった。
 「先生に再会すると、子どもに返ったような気持ちになる。あのころの師弟愛には、親子よりも深い絆が感じられました。子どもを本当に教え導く姿勢があった。いまのサラリーマン化した先生とは全然違う」
 厳しい。
 生家は鳥取市の中心部から南へ十二キロの松上という集落である。兎追いしかの山……と歌われる童謡「ふるさと」そのままの風景がいまも残る。
 荒行のような会社草創期
 故郷がはぐくんでくれた人の心と心の結びつきを大切にする精神は、経営の根幹ともなっている。
 「他人を幸せにすれば自分も幸せになれる。正直者がバカをみない経営体のなかでこそ、人は活きる」
 町工場から裸一貫で世界的な総合スポーツ用品メーカー・アシックスをつくり上げた。
 努力の人だ。献身的な義務感、目標を定めると寝ても覚めても考え抜く、研究する。動く。いまもって生涯現役で突き進んでいる。
 「愚直で不器用」と苦笑するが、そうした火のような思い入れが周辺を動かす。
 しかし、会社草創期は荒行のような生活だった。
 三十二歳でスポーツシューズ会社「鬼塚商会」を興す。全く無一文だった。戦争の傷跡が癒えないモノ不足の時代。三年目の正月、支払いの手形の工面がつかず、生産を委託していた会社に出向き頭を下げて言った。
 「借金の肩代わりに、私と社員全員をあなたの工場で働かせてください」
 不渡りを出したら事業再開は容易ではない。 すると取引先の社長は「あんたは正直な人だ。手形の不足分は私が肩代わりしましょう」と思いがけない返答だった。
 人の温もりを肌で知った。
 セールスで地方回りをしたときまだ名の知れぬシューズに小売店からは相手にされなかった。厳しさを知った。お金がないから旅館に泊まれない。駅のベンチで雨露をしのぎ、早朝には相手先に出向く。一週間で十都市を回る強行軍だった。過労で二度三度、死線をさまよったこともある。自宅や会社の宿直室で療養しながら、それでも医者の反対を押しきって入院せずに仕事を続けた。
 「私が倒れたことで会社全体がまとまり、社員の能力が向上した」と述懐する。社員の経営への参画意識が高まったからだ。
 自分ひとりの会社ではない。こうした考えから創業十年目に株式を社内公開。経営内容をガラス張りにすると同時に、異彩を放つ「運命共同体」志向を打ち出した。
 「企業にはまず優秀な労働力が必要です。当然のことながら資金も確保しないといけない。そしてこの二つをうまく調整する経営者が欠かせない。労働、資本、経営が一体となる運命共同体で、三者が等しい一辺となって構成する正三角形が企業の理想の形ではないだろうか」
 バスケット用シューズから出発した「オニツカタイガー」の競技用シューズがオリンピック選手に正式採用されたのは、昭和三十一(一九五六)年のメルボルン大会からだ。マラソンと、日本選手団が開会式に履くトレーニングシューズだった。独自の技術を磨き、専門分野でナンバーワンになっていく「錐(きり)もみ商法」といわれる経営戦略の始まりでもあった。
 四年後のローマ大会では、レスリングと体操でオニッカシューズを履いた日本選手が日の丸を揚げた。
 ショッキングなことが起こった。
 最終日のマラソンエチオピアアベベ選手が裸足で走って金メダルを獲ったのである。 「裸足がはやっては靴屋はあがったり」
 翌年「毎日マラソン」で来日したアベベ選手を待ち受けるかのようにホテルに出向き、話を持ちかけた。
 「裸足と同じくらい世界一軽いシューズをつくるので、ぜひ履いて欲しい」
 アベベ選手はこの話に乗り、オニツカタイガーシューズを履いて走った。みごとに優勝した。
 以後、オニツカタイガーシューズは日本のマラソンランナーの八〇%のシェアを獲得するほどの人気商品になった。君原選手はメキシコ五輪で銀メダルを、東京五輪では各種目でオニツカラインの入ったシューズが躍った。金二十、銀十六、銅十個の華々しさだった。
 評価の高まる一方で経営の多角化に失敗し、経営危機に見舞われたこともある。綱渡りの状況にあって、協力メーカーは「苦しいが頑張ろう」と支えた。
 「心と心の結びつき」を大切にする誠意が根を張っていたのである。
 原点への回帰
 昭和五十二(一九七七)年、劇的な合併によって「アシックス」が誕生した。スポーツウエアネットのジィティオ、ニットウエアのジェレンクと、オニッカの三社だ。ミズノ、デサントと肩を並べるメーカーの誕生だった。 ASICS。その意味するところは「健全なる身体に健全なる精神が宿れかし」である。ラテン語でいう「アニマ・サーナ・イン・コルポレ・サーノ」の頭文字を取っている。
 あの二本線が縦横に入っているシューズは、アベベ選手から宗兄弟、瀬古、中山、森下広一山下佐知子(いずれも鳥取県出身)、そして有森裕子選手へとマラソン界で受け継がれてきた。野球のイチローは言うに及ばない。 小さい個人商店が半世紀の間に、海外十数社の現地法人をはじめ、国内二十数社の企業を持ち、総勢五千人の国際企業に成長した。だがブランドイメージで入社してくる社員には手厳しい。
 「会社組織では一人ひとりの思いやりがなければ、チームとしての成果は生まれない。その上で自分を、個性を磨けといいたい」
 自らに対しても「経営はハングリー精神が必要である。幹部が安泰を考えてはいけない。会社の若い連中と生活して、ここで死にたいと考えている」という。

 

 初出:『鳥取NOW』32号(鳥取県広報連絡協議会、平成8年12月1日)