むらの幸福論

暮らしのちいさなところに眼をむける。

寛かなれ

 子どもが「チャレンジしてみたい」と言ってきたことにはできる限り応えてきた。

 ここからが肝心。

 子どもが習いたいと発言したことには、責任を持たせる。「つまらない」から、「飽きた」から、「うまくできない」からなどの理由でやめさせることはさせなかった。 

 これは子どもの勝手な理由、いわば「わがまま」である。それを認めてしまい、次から次へと興味のあるものに移っていくだけでは後に何も残らない。

 物事は「うまくいかない」から「つまらない」し「飽きる」。そこには「努力する」が抜けている。

下りるとき

 習慣という<怪物>は、どのような悪事にもたちまちひとを無感覚にさせてしまうが、半面それは天使の役割もする。

 終始、良い行いをするような心がけになれば、初めは慣れぬ借り着も、いつかは身についた普段着同様、おいおい肌に慣れてくる。

 今宵一夜をおつつしみなさい。

 明日の夜はもっと楽になりましょう。

 その次はさらにたやすく。

 こうして習いは性となり、ひとは、知らぬまに、悪魔を手なずけられもしようし、それを追い出してしまうこともできる。

あけもどろ

 習慣という怪物は、どのような悪事にもたちまち人を無感覚にさせてしまうが、半面それは天使の役割もする。終始、良い行いをなさるようお心がけになれば、初めは慣れぬ借り着も、いつかは身についた普段着同様、おいおい肌に慣れてくる。

 今宵一夜をおつつしみなさい。明日の夜はもっと楽になりましょう。その次はさらにたやすく。こうして習いは性となり、人は、知らぬまに、悪魔を手なずけられもしようし、それを追い出してしまうこともできる。

ふしぎな運

 運はひとの努力で呼び込めるものでもなければ、つなぎ止めておけるものでもない。どこからともなくやって来て、ひとの手の決して届かないところで物事の左右を決して去っていく。

 そういうもの。それだけにとても歯がゆい、悔しい思いもするけれど、運なくして何かをなし遂げられる人はいない。

自責の重み

 「他責」で考えがちな現象に対して、「自責」の視点を持ち込んでみると、それまではしようがないと思いがちだったことに対して、驚くほど、自分ができたはずのことが見えてくる。

 「他責」で考えていると、問題の解決は他人任せになってしまうが、「自責」で考えてみると、その問題に対して、自分が貢献できる解決策がわずかながらでも見えてくる。

不安のゆくえ

 「不安は力なり」そう言っても、決してオーバーだと感じない。不安がなければ、こんなふうに毎日を生きてはいられないのではないか。

 頭から不安を追いはらおうなどと考えずに、不安を生きる力とする道をさがしてみたい。