むらの幸福論

暮らしのちいさなところに眼をむける。

木全円寿と本多秋五

 本多秋五の”落ち穂拾い”をはじめて三〇年になろうか。先達の評論家のような確たる研究は、力量不足でおよばない。名古屋タイムズでの新聞記者時代、いまは亡き木全円寿さん(同人雑誌『北斗』前主宰者)の「地元・挙母に残した本多資料を探せ」との指導で、同級生らを尋ねあるくことに専念した。

 一〇数人にあった。鬼籍に入られている小学時代の同級生、羽田倉三さんには親切にしてもらった。

 「役に立てばもっていけ」といただいたのが、本多先生が挙母にのこした唯一の仕事である『挙母文化』という雑誌である。いまのところ、後にも先にも挙母に残した”活字”はこれしか見たことがない。全集にも収録されているが、実物は本多先生の手元にもなかったと聞く。

 「文学は小人婦女子の業であるなど」と題された小品がそれである。昭和二四年一月二〇日、挙母文化発行所が発行元になっている。創刊号が出たきりで、続刊されなかった。

 奥野健男さん流にいえば「世俗に屈しない清潔な頑固さ」がかいま見える。先生四一歳のときである。松山春雄「忘れ得ぬ人々」、本多秀治「青年演劇」が載っている。

 羽田さんは、小学生のころの本多少年の読書体験を、こう述懐していた。
 「五年生前期ころ、友人三人で桜井忠温の『肉弾』をひとり三三銭ずつ出しあって購入して回し読みをしたり、立川文庫豆本を耽溺していた。文庫は、担任の先生は読んでいけないと厳命されていたにもかかわらず、暇さえあれば読んでいた」

 わたしが調べていたころは、今日ほどプライバシーが厳しくないころで小学生の通信簿も閲覧できた。

 優秀な成績だった。

 態度もゆったりと落ち着きはらっていて、こせこせした所作は見られないと書いてあった。

 ほのかな恋路のエピソードをひとつ。
 「私は小学校の一年か二年のころ、四つ五つ年上のきみちゃんにホレていたのに、このときの記憶が確かでないのは、よっちゃんの方が活発で、きみちゃんがおとなしい子だったからか」(「鋼治兄のこと」)

 やがて、六年生の終わりごろ、挙母から名古屋の白壁小学校に転校、愛知県立第五中学(現在の瑞陵高校)に入学する。三、四年まではガリ勉生徒で、たまに余暇をさいてテニスに興じていたが、五年になって校友会雑誌『瑞穂』の雑誌部委員に渡辺綱雄さんや小川安政さん(胸を患い死亡)となる。

 同誌は先生と生徒が作文や随筆、小説をはじめ校内行事、スポーツ行事などの報告を載せたもので、本多先生はおもに作文を書いていたという。このなかで知り合った数人が、やがて同人雑誌『朱雀』へと発展していく。

 「中学時代の本多君は、学校の勉強ばかりしていた印象がつよい。文学はおくてで、さほど活躍しなかった。それが、校友会誌に参画するようになったころから、当時文学をかじっていたわたしと親しくなり、その”悪影響”で文学に傾斜していった。本多君を文学にさそったのは僕だ。当時からひとりの作家に打ち込んだらトコトンのめりこむタイプだった」
 中学時代の友人、故・渡辺綱雄さんから二五年前に聞いた回顧談である。

 『瑞穂』は渡辺さんが保存されていた。
 これまで全集に未収録だったものが、瑞陵高校の尽力で見つかった。

 本多先生は当時、生徒、職員から慕われていた大塚末雄校長が突如、辞任するというので自らもストライキに参加したてん末を、第一六号(大正一五年二月)に「大塚校長を送る」と題して寄せている。

 それにつけても我々は先生に対して、我々が途方もない不孝者であった事を思って悲しくも淋しく感ぜざるを得ません。運動に学問に日常の一つ一つの事が先生の御心配をわづらはした事は勿論として、特に彼の盟休事件については、非常に憂慮をわづらはし、此の吾等の敬愛措かぬ老校長をして「わしは教へ子にそむかれて、身が痩せる思ひがする」と歎ぜしめた事を思ふと、何とお詫びして良いのやら、只吾々の罪深かさ、無遠慮と軽率とを深く慚づる許であります。(『五中-瑞陵八十周年記念誌』所収)

 『朱雀』については、わたしの手元に四冊しかない。そのうち小説が三作ある。善し悪しはわからないが、第三巻第三号の編集後記に、文学に対する並々ならぬ覚悟を記している。

 久しい間の休刊も決して芸術に対してこの精進と雑誌に対する情熱の衰退を意味するものではない。…僕はもっと書くつもり が短いものになって仕舞ひました。

 「夜の日記」という六ページ足らずの恋愛小説を、最終刊には「暁闇(あかつきやみ)を凝視する」という兄・義雄を主人公に、テニスを介した心境小説らしきものを発表している。このとき、第八高校二年である。

 三年になって、石井直三郎教授が顧問となり「八高劇小説研究会」を武田満作さんとともに創設する。「自らの貧しさを知る真面目な研究をしてゆきたいのが念願」だった。「持ちよった作品の中でいゝと認められたもの」(編集後記)を校友会雑誌に発表した。

 創立二〇周年記念号(昭和三年五月三〇日発行)に、一九ページにわたって小説「動揺時代」を発表しているが、「いま読めるものはなかろう」(「八高時代の平野謙」)と三〇年後、叙述している。

 青春という「貴重な資本を投下した初めての場所」(同上)であった第二の故郷名古屋と決別し、昭和四年四月、<評論>の道へと突き進んでいく。
 たった二一年間の<新しい記憶>なのに、<井戸>はあまりにも深い。


      (本稿は『本多秋五全集』別巻二付録の「月報18」に加筆したものである)

むのたけじの箴言

 40数年前、師・むのたけじさんから言われた。「人づきあいで大切なことは、これはおかしいと思ったらハッキリ言うことだ」と。友だち、恋人、仕事であっても、言いにくいことであっても口に出す。

 このことは、非難や否定ではなく、相手を生かすことである。一生つきあっていきたいから、気まずいこともハッキリとしていきたいからだ。

 すごくエネルギーがいることで、愛情がなければできない。

 正直に対話する。お互いを尊重することにもつながる。

 大切なひとこそ、「違う」と思ったら正直に言ってきた。師の箴言は間違っていなかった。

嘘々しい「寄り添う」

 はやり言葉になっている「寄り添う」。キレイすぎて、気恥しい。言うだけのがわの人には、使い心地がいい。聴くだけの人には、耳ざわりも悪くない。

 言葉の甘さ、嘘々しさにきづかされる。

 そばにいる、かたわらで待つ、ぐらいでいい。

 

排除社会をぶち壊し、異質での連帯社会を

 いつになれば、日本から「村八分」がなくなるのか。異なるものを排除する社会をぶち壊し、異質での連帯が求められている。

 平等ではなく、対等。対立を含みながら、一対になっていく発想の持ち方である。たいがい人間は、等しくなれない。理想だけを口先でいうから、現実の差別や阻害は、全然なくならない。

 共生とか共存もそうだが、言葉だけの美しさに酔ってはだめである。


  

歯医者のストレス

 20年ぶりに歯医者に通うようになって、自律神経が崩れた。虫歯の治療だ。生きながらえるために、治療することにした。1週間に1回。約30分ほどの治療だが、ストレスがたまる。1か月ほどして、偏重をきたした。食事がすすまない。だるさ、倦怠感に襲われる。

 行きつけに医院にいけばいいのだが、運転する気力がおきない。薬を服用して、どうにか喉を通るまでになった。

 弱ったときは、自力で奮い立たせてきた。

 単独では、なかなか暮らしが難しくなった。

聞き手の妙味

 大学を出て新聞記者になって、聞き手と話し手という仕事が確立した。

 40歳で、組織を離れた。一平卒になった。肩書きがなくなった。

 フリー編集者。

 誰も見向きもしないと思いきや、独立経営になって26年たつが、仕事のやり方はまったく変わらない。

 聞き手と話し手をつなぐのは、信頼という目にみえない危うい関係しかない。目にはみえないが、あるときは、お金に結びつく。無から有を産む。

 ぼくの半生は、信頼で仕事をしてきた。振り返ると、そら恐ろしい。

 信頼がなければ、とっくに埋没して死していた。

 信頼がなければ、文章も、ただの紙切れだった。

 信頼とはなにゆえなのだ。自問自答するが、言葉には出せない。辞書をひもとけば、意味合いはわかるが、それは辞書だけの答えである。

 廃業した手漉き紙漉き屋さんから、電話があった。

 出向くと、仕事場に、最後にすいた画仙紙と、紙をすくときの簀(す)がおいてあった。簀は、代々受け継がれてきた「生き証人」である。いわば「形見」だ。

 「これをもらって」と主人が言った。

 「生きてきたあかしは、大切に保存してください」と、聞き手。

 「いや、いつも仕事を見続けて応援してくれたお礼です」と主人が返す。

 30分ほど、やりとりした。

 聞き手が、もらった。

 信頼が結んだ結果である。

 話し手と聞き手という関係は、まだ続く。

 聞き手となって40年すぎた。