むらの幸福論

暮らしのちいさなところに眼をむける。

当確だね、羽生に国民栄誉賞

平昌五輪で金メダルに輝いた羽生結弦選手(フィギュアスケート男子)と小平奈緒選手(スピードスケート女子500メートル)に国民栄誉賞を授与する案が政府内で浮上している、とYahooNEWSが伝えている。

 1977年創設の栄誉賞は「広く国民に敬愛され、社会に明るい希望を与えることに顕著な業績があった」人が対象。五輪選手の受賞は女子マラソンなど夏季大会しか例がなく、冬季大会で決まれば初めてだ。

 

羽生、金メダルなら国民栄誉賞ですかね?

 右足の負傷からの復帰戦で、66年ぶりとなる五輪連覇をかける羽生結弦(23)の演技は、神業だった。

 完璧な演技を見せ自己ベストの112・72点に迫る111・68点でトップに立った。

 もし、金メダルなら国民栄誉賞ですかね。

 安倍さんは、ほくそ笑んでいるんではないかな。

ムラの行方

「人の空洞化」→「土地の空洞化」→「ムラの空洞化」→「ムラの消滅」

 これを前から順に言い換えれば、「過疎化」→「耕作放棄減反)」→「社会的空白地域化(集落機能の極小化)」→「人口空白地域(廃村)」となる。
    
 これに対応してどういう政治行政が行なわれたかというと、それぞれに対症療が打たれてきたものの、「傷口を押さえるだけで抜本的な改革にはならない」対策だった。そして、事態はもはや待ったなしで「ムラの消滅」を直視せざるを得ないところまできている。

 さらにムラの消滅の危機は産業構造とか地域構造の変化とか、それが引き金である。

しかし問題は何か?

 過疎地域の本質的な問題は何かというと、「心の過疎=絆の欠如」ではないかと。つまり、その地域に住むことの誇りを失っていることが大きい。中山間地域に行くと、おじいさんが「ワシの地域には何もない」と自信を持って言う。

 都会の人が行って「すごいですね」と言っても、地域の人は「だめなんだ。いまさら何をやってもしょうがない」という諦念に取りつかれてしまい、何か新しいことをはじめることができない状況に陥っている。

 地方行政の問題点とともに、自助自立に必要な住民の心のあり方が大切だ、というわけである。一方で都会に住む人たちからは逆の極端な意見を聞いたことがある。

「過疎地域が過疎化することは時の流れだし、むしろいいことだ。無理して限界集落を維持しようとするよりは、人を大都市に集めたほうが経済は効率的にまわる」と。つまり、「都会は○」で「田舎は×」という価値観が、都市住民にも地方の人たちにもふかく浸透していて(曽根英二・阪南大学教授)、それが日本社会の惰性となっている限りは、事態が根本的に変わることはない。

 ただその一方で、ほのかな希望の手がかりでもある。

「自分のことすらできないのに、なんで田んぼなど作れましょうか」――「もったいなくても、作りたくても田んぼを荒らすしかない」と先延ばしにしていた決断をしなければならない日が来る。
これが限界集落の今を端的に表わす証言である。

(2)限界集落の経緯と現状
 限界集落は、大野晃(長野大学教授)が91年に提唱した概念である。「65歳以上の高齢者が集落人口の50%を超え、独り暮らし老人が増加し、このため集落の共同機能が低下し、社会的に共同生活の維持が困難な状態にある集落」と定義された。
 
大野が提唱した当時は、限界集落はまだ点的な存在であった。しかし、その後、限界集落の分布は点から面へと転換する。大野のフィールドであった高知県大豊町では、すでに過半の集落が限界集落に分類されるまでになっている。

 こうした限界集落の拡大は、近年注目されている小規模自治組織による地域の再生すらも難しい状況を生み出しつつある。

(3) 限界集落をめぐる議論
 限界集落の今後については、その厳しさ故に正面から切り込む議論がなされてこなかった傾向がある。かつて生源寺真一(名古屋大学教授)は「ターミナル・ケア」といった表現で、集落やムラも存続そのものや関わり方のなかで末期的を意識した接し方があることを指摘したが、この種の議論は広がりを見せなかった。しかし、2000年以降に、限界集落が広範に展開するようになると集落の終焉を前提とした議論が提起されるようになる。

 「むらおさめ」や「撤退の農村計画」といった切り口で、集落の終焉をみとめたうえで、何をすべきかが議論されるようになってきたのである。たとえば「むらおさめ」論では、いかに消滅しつつある農村を「看取る」かに焦点があてられており、「撤退の農村計画」のグループでは、「もはや“すべて守る”ことは不可能であり、“撤退”についても、真剣に検討すべき時期にさしかかっている」とする。

 中山間地域の集落をめぐる議論は、いわゆる限界集落の後、すなわち“ポスト限界集落=消滅集落”というかつて経験したことのない過酷な段階に入りつつある。

(4) 集落ターミナル・ケアとしての「むらおさめ」
 限界集落を積極的に廃村に追いやることは国土保全の観点からも好ましいとはいえない。そのため、積極的な抑制戦略が展開されるべきである。その結果、集落の維持(延命)や、場合によっては集落の再生(蘇生)が期待される。

 しかしながら、21世紀に入り、国全体の人口が減少する時代においては、現実に限界化を抑制できない集落も生じてきており、またそうした傾向が急速に強まりつつあることも間違いないのである。つまり、一部の限界化した集落では、刻々と集落世帯員は加齢していき、世帯員の死亡による世帯の消滅が続いている。

 集落に残された最後の世帯員の死亡により、居住地としての集落は消滅することになる。この過程では、集落はなし崩し的に消滅していっている。

 しかし、集落がどんなに限界化しようとも、当該集落における人々の最低限の暮らしを保証する責務がある。すなわち、道路、電気、ガス、水道といったライフラインの確保と維持・管理のもとで、衣食住の生活維持と医療、福祉のサービスは継続していく必要がある。このように自治体が残存世帯の生活の質を最後まで維持し、集落の最後を「看取る」必要がある。

 こうした、いわば集落のターミナル・ケアを総称して「むらおさめ」と表現し、地域住民が、限界集落に対して絶えず関心を払う必要がある。

 「むらおさめ」は、限界集落を積極的に消滅させるものではない。集落の限界化に対して様々な抑制戦略を行った結果、どうしても消滅が逃れられない集落において、集落構成員により合意形成された集落の撤廃を包含している。

 「むらおさめ」で最も重要なことは、集落消滅後における集落内の農林地と家屋を管理していくことである。

(5)財産の「棚卸し」問題
 「むらおさめ」の議論では“ポスト限界集落”の問題のひとつとして農林地、家屋の管理体制の確立、すなわち、財産の位置を明確にする「棚卸し」が必要であると指摘されている。
 「棚卸し」は次世代が山村の資産を引き継ぐうえで極めて重要であるが、その実施は年々困難さを増している。所有者の域外流出が急速に進んでいるからである。

 前出の大豊町では、2008年度の町内の土地を所有する者のうち、すでに40%が町外所有者である。また、農林業サンセスによると、町内の私有林面積22690haの39%が町外者によって所有されている。

 問題は相続の未登記によってさらに深刻さを増す。現在、中山間地域では相続登記をしない農林地が広がりつつある。主な原因は農林地の経済的な価値が登記費用や手続きの煩雑さに比べて低すぎることにある。所有者が他出した状態で、相続の登記がされなくなると登記簿には故人の氏名と住所が記載される。

 こうなると、子ども世代が他出したあとで誰が土地利用を決定するのかを判断することは難しくなる。

 他方、域外の所有者からみると、集落との繋がりが希薄化するとともに集落の情報は著しく減少するのである。土地の管理を放棄すれば周辺の環境に悪影響を及ぼす認識は薄れ、集落における起業や経営規模の拡大などのビジネスチャンスに関わる情報も得難くなる。このため、所有者にとって中山間地域の所有地は価値のない小片の農地や林地に過ぎなくなる。

 また、相続登記がなされない場合には、法定相続人であるという意識する危うくなる。結局、少なからぬ域外所有者にとって、山間地域の土地は関心のない資産になってしまう。所有はしているものの、管理の方法がわからず、利用に関する情報も得られない。

 こうした状況では所有権が執行される可能性は低く、形骸化する。結果として、誰も使うことのできない土地が広範囲に展開しかねない。

(6)農林地管理を維持するための政策と効果
 管理放棄を未然に防ぐには、所有者の管理責任を問う方法がある。
 これに関しては様々な方法が議論させている。

耕作放棄にともなう環境負荷の除去という所有者責務」を提起し、所有者による負担の必要性を説く。また、林地については「林業人は“森林は林業によって守られてきた”という考えを改める必要があろう」としたうえで「自然破壊的に森林を取り扱う所有者には環境費用の“汚染者負担の原則”のようなものを適用して、所有権の乱用を戒めるべきであろう」と諸説議論されている。

 しかしながら、現行の制度に所有者責任を問うものがないわけではない。農地には農業経営基盤強化促進法があり、林地には森林法がある。前者には耕作放棄地への対処が明記されている。すなわち、「遊休農地及び遊休農地となるおそれがある農地並びにこれらの農地のうち農業上の利用の増進を図る必要があるもの」を要活用農地と定義し(6条)、この利用を促す仕組みが定められている。

 要活用農地については、まず、地域の農業委員会が農業利用の増進を指導する(27条)。この指導に所有者が従わないときには、市長がこれを周辺の農業に障害を与える特定遊休地に指定し、所有者等に通知する。所有者等は、これらに対する利用計画を届けなければならない。提出された計画が不十分な場合には、市長は新たな利用計画を勧告し、それに従わないときには利用権設定による農地の賃借を所有者等と協議できる。
 
 この協議が調わない場合には、県知事による勧告、さらには利用権設定の裁定を行う制度が整えられている。この裁定は、いわば強制的に農地を賃貸借させる規定であり、最終段階では、所有者の責任を厳しく問う仕組みとなっている。

 森林法では要活用農地に相当するものとして要間伐森林が定義されている。要間伐森林とは、地域の森林計画の対象となっている民有林のうち、「間伐又は保育が適正に実施されていない森林であってこれらを早急に実施する必要のある森林」をさす(森林法10条)。

 要間伐森林に対しては、まず市長が説明会や広報によって指導を行うが、それでも間伐等が進まないときには適正な森林施業を勧告できる。勧告が受け入れられない場合には、市長は所有者等に対して間伐等の委託(権利移転等)を勧告する。

 所有者がこれにも従わないときには、県知事による調停、その受諾勧告、さらには分収育林契約の裁定等の措置が準備されている。

 いずれの制度も、私有権をできるだけ侵害しないための慎重な配慮がみられる。また、指導に始まり、県知事による強制的な執行に至るまでの措置を多段階に組み込んでいる点でも共通しており、周到な制度設計がなされているといえる。
しかし、いずれの制度もこれまでのところ実効性をもっていない。

 農業経営基盤法では1998年から2003年までの6年間に指導がなされた耕作放棄地は全体の2%に留まり、利用権設定の協議や裁定は2007年末までのところでは皆無とされる。

 森林法についても同様である。要間伐森林の総面積は2006年度で4万9000haとされる。これは地域森林計画(民有林)の総面積259万haの2%弱に相当するが、とても現実を反映しているとは思えない。というのも、要間伐森林は管理が「間伐の標準的な方法」に従って実施されていない森林と定義されており、森林の現況からみてそうした荒廃林が全体の2%未満の水準に収まるはずはないからである。また、勧告や裁定を行った例は皆無である。

(7)責任論の実質化に向けて
 制度が整備されていながら、管理責任の実質的な引き上げができないのはなぜであろうか?
 原因にひとつには、引き上げに関する合意形成ができていないことがあげられる。利用権設定や分収育林の裁定には前段の手続きとして市長の勧告が必要とされるが、これには自治体内の合意が不可欠であり、超えがたい壁となっている。

 また、荒廃した農林地の過半についてはその生産条件の劣悪さから管理を請け負う主体が見つからないという状況が稀ではないのである。農林地の受け手がいなければ、勧告や裁定を通じた権利移転はありえない。

 責任の水準の引き上げについては「利害関係者の長期にわたる葛藤」のすえに成立するとして、その難しさを指摘している。
 日本の農政においては、従来から農業=環境保全的という発想が根強い。そのため、経営者が守るべき環境の水準(基準点)を引き上げることについて十分な合意形成がなされてきたとは言い難い。

 しかし、基準点の引き上げは、今後の中山間地域の国土保全のためだけでなく、それを支える国民の合意を得るためにも避けて通れない大きな課題である。具体化に向けての検討は急務である。

ちいさな可能性

 できない理由を探すから、不可能に思える。できる理由を探していけば、不可能を可能にする方法が必ず見えてくる。

 達成できないと思えてしまうのは、一つひとつの小さな目標を達成する速度が常識的だから。目標を達成するのにかける時間は、常識から計算してはいけない。

 常識などは忘れて、まず最終目標をいつまでに達成するかを決めてしまう。そこから逆算し、個々の小さな目標をクリアするのにかける時間を割り出す。

弱さの「強さ」

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 文化人類学の辻信一さんのことばが忘れられない。

 朝日新聞の「弱さの強さー成熟社会を生きる」で、こんなことを話しておられた。

 「赤ん坊で生まれ、老いて死ぬ。人生の長期間にわたって不思議なほど弱い。弱さが土台だから、共に生き、思いやり、助け合う」
 
 そうなんだ。いともたやすく納得してしまう。

 経済学も「強者の思想」にみえると、辻さんは言っている。

 富を得るための競争の終着点は、1%の強者と99%の敗者。

 「21世紀の資本」から、幸せの経済学、連帯の経済学、贈与の経済学が新しいトレンドになりつつあるとも。「幸せの経済学」は、すでに指標となっている。

 強いことばは、ひとの心を動かす。でも、弱いことばを組み合わせれば、「文章の強度は増す」らしい。

 ことばも、人間も同じ。

 弱さを認めてこそ、ホントの強さ。

 でも・・・

 「どんなよい考えも、胸にしまっておくだけでは錆てしまう。知恵は、表現することによって磨かれる。見た、読んだ、聞いた、考えたことは書き、言う努力をつづけることによってたくましくなる」(むのたけじ)んだ。

本多秋五と豊田市

 本多秋五の”落ち穂拾い”をはじめて30年になろうか。先達の評論家のような確たる研究は、力量不足でおよばない。

 名古屋タイムズでの新聞記者時代、いまは亡き木全円寿さん(同人雑誌『北斗』前主宰者)の「地元・挙母に残した本多資料を探せ」との指導で、同級生らを尋ねあるくことに専念した。10数人にあった。鬼籍に入られている小学時代の同級生、羽田倉三さんには親切にしてもらった。

 「役に立てばもっていけ」といただいたのが、本多先生が挙母にのこした唯一の仕事である『挙母文化』という雑誌である。
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 いまのところ、後にも先にも挙母に残した”活字”はこれしか見たことがない。全集にも収録されているが、実物は本多先生の手元にもなかったと聞く。

 「文学は小人婦女子の業であるなど」と題された小品がそれである。昭和24年1月20日、挙母文化発行所が発行元になっている。創刊号が出たきりで、続刊されなかった。

 奥野健男さん流にいえば「世俗に屈しない清潔な頑固さ」がかいま見える。先生四一歳のときである。松山春雄「忘れ得ぬ人々」、本多秀治「青年演劇」が載っている。

 羽田さんは、小学生のころの本多少年の読書体験を、こう述懐していた。

「五年生前期ころ、友人三人で桜井忠温の『肉弾』をひとり三三銭ずつ出しあって購入して回し読みをしたり、立川文庫豆本を耽溺していた。文庫は、担任の先生は読んでいけないと厳命されていたにもかかわらず、暇さえあれば読んでいた」

 わたしが調べていたころは、今日ほどプライバシーが厳しくないころで小学生の通信簿も閲覧できた。優秀な成績だった。態度もゆったりと落ち着きはらっていて、こせこせした所作は見られないと書いてあった。

 ほのかな恋路のエピソードをひとつ。

 「私は小学校の一年か二年のころ、四つ五つ年上のきみちゃんにホレていたのに、このときの記憶が確かでないのは、よっちゃんの方が活発で、きみちゃんがおとなしい子だったからか」(「鋼治兄のこと」)

 やがて、6年生の終わりごろ、挙母から名古屋の白壁小学校に転校、愛知県立第五中学(現在の瑞陵高校)に入学する。3、4年まではガリ勉生徒で、たまに余暇をさいてテニスに興じていたが、5年になって校友会雑誌『瑞穂』の雑誌部委員に渡辺綱雄さんや小川安政さん(胸を患い死亡)となる。同誌は先生と生徒が作文や随筆、小説をはじめ校内行事、スポーツ行事などの報告を載せたもので、本多先生はおもに作文を書いていたという。このなかで知り合った数人が、やがて同人雑誌『朱雀』へと発展していく。

 「中学時代の本多君は、学校の勉強ばかりしていた印象がつよい。文学はおくてで、さほど活躍しなかった。それが、校友会誌に参画するようになったころから、当時文学をかじっていたわたしと親しくなり、その”悪影響”で文学に傾斜していった。本多君を文学にさそったのは僕だ。当時からひとりの作家に打ち込んだらトコトンのめりこむタイプだった」

 中学時代の友人、故・渡辺綱雄さんから25年前に聞いた回顧談である。
 『瑞穂』は渡辺さんが保存されていた。
 これまで全集に未収録だったものが、瑞陵高校の尽力で見つかった。

 本多先生は当時、生徒、職員から慕われていた大塚末雄校長が突如、辞任するというので自らもストライキに参加したてん末を、第16号(大正15年2月)に「大塚校長を送る」と題して寄せている。

 それにつけても我々は先生に対して、我々が途方もない不孝者であった事を思って悲 しくも淋しく感ぜざるを得ません。運動に学問に日常の一つ一つの事が先生の御心配 をわづらはした事は勿論として、特に彼の盟休事件については、非常に憂慮をわづら はし、此の吾等の敬愛措かぬ老校長をして 「わしは教へ子にそむかれて、身が痩せる 思ひがする」と歎ぜしめた事を思ふと、何とお詫びして良いのやら、只吾々の罪深か さ、無遠慮と軽率とを深く慚づる許であり ます。(『五中-瑞陵八十周年記念誌』所収)

 『朱雀』については、わたしの手元に四冊しかない。そのうち小説が三作ある。善し悪しはわからないが、第3巻第3号の編集後記に、文学に対する並々ならぬ覚悟を記している。

 久しい間の休刊も決して芸術に対してこの精進と雑誌に対する情熱の衰退を意味するものではない。…僕はもっと書くつもり が短いものになって仕舞ひました。

 「夜の日記」という6ページ足らずの恋愛小説を、最終刊には「暁闇(あかつきやみ)を凝視する」という兄・義雄を主人公に、テニスを介した心境小説らしきものを発表している。このとき、第八高校2年である。

 3年になって、石井直三郎教授が顧問となり「八高劇小説研究会」を武田満作さんとともに創設する。「自らの貧しさを知る真面目な研究をしてゆきたいのが念願」だった。「持ちよった作品の中でいゝと認められたもの」(編集後記)を校友会雑誌に発表した。
 創立20周年記念号(昭和3年5月30日発行)に、19ページにわたって小説「動揺時代」を発表しているが、「いま読めるものはなかろう」(「八高時代の平野謙」)と30年後、叙述している。

 青春という「貴重な資本を投下した初めての場所」(同上)であった第二の故郷名古屋と決別し、昭和4年4月、<評論>の道へと突き進んでいく。

岡村昭彦のシャッターeye

 写真は、シャッター以前で決まるーーこの格言を遺したのは、岡村昭彦さんだった。

 わかる。

 写しだされた1枚。

 わが心が華とする優しさ。

 心象華譜。