むらの幸福論

暮らしのちいさなところに眼をむける。

聴く耳をもつ責務

f:id:munosan:20161209184515j:plain
 テッペンまで登りつめると、みずから降りる術をしらないのだろうか。周りが見えないのか。見えていても、塞いでいるのか。

 戦国の世の天下人は、参謀といわれる知恵者を脇にしたがえていた。聴く耳をもっていた。民衆からも、見守られていたのだろう。サクラを愛でるのも、あるじに誘われなくても、馳せ参じたであろう。恰好つけて、民主主義なんていわなくても、作法はこころえていた。

 天下人は、奥さんの言うことこそ、率先して聴く耳をもっていた。奥さんも、処世をみにつけていた。

 今度こそ、テッペンから引きずりおろされる気がする。徒党をくむ相棒が「聴く耳をもたなくなって」きている。

金持ちになる木に、赤い実

f:id:munosan:20191119085329j:plain
 むかしのひとって、住まいのまわりに気くばりができていて、楽しくくらしていたんですね。庭先に、金持ちになる木がある。「モチの木」のことである。赤い実をつけていた。はじめてみた。ちいさな倖せである。

 緑は眼にやさしい。赤は元気をもらえる。

 縁起かつぎで植えたんだろう。

 

ようやく衣替え

f:id:munosan:20150608170002j:plain
 遅めの衣替えをしている。肌着を半袖から長袖に。冬でも、半袖だったが、数年前から長袖にした。アチコチのを着てみたが、グンゼが肌触りがいい。半袖は、無印を愛用している。

 色合いは寝るときは白だが、起きて活動しだすと赤に着替える。師むのたけじに教わってからだ。なんか、元気がでるような気がする。自己満足である。

 ここのブログでも、愛用のものを種々書いておられるが、ぼくはコットンと赤であればいい。

 

風と雲

 風のおとで起きた。時計のけたたましい音とは違う。となれば、風は、時計の役目もはたす。ここ10年、時計は持ってない。

 雨音で起きることもある。陽光がふりそそぐさまでも、起きる。

 今は亡き立松和平さんの名著「木喰」を再読しているのだが、「雲は風に流されていくだけなのだから、どこにいくのかは風に聞いてみなければわからない」言葉にでくわす。

 暮らしの羅針盤に、風がなっているんだ。

「ふつうになる」責任

 「ふつうになる」って、そうとうの覚悟と責任がないと、なれない。むずかしい。小さな集団でこそ、角度をつけないと、応対できない。すこしでも高いところにいたくなる。

 ましてや、「著名」となってしまうと、舞い上がる。舞い上がったまま。とかく「一般人とは違う」ニュアンスのような言いまわしをする。意識、無意識に角度をつけている。雰囲気でつたわる。貌のうごきで察知したりする。

 角度をつけていることを、とっくに見抜かれているのに気づかない。

 

晩秋なのに~グングン伸びるひまわり

f:id:munosan:20191117120913j:plain

 異常気象で、野花も、さどや、しどろもどろだろう。晩秋になって咲き誇るひまわりを初めて見た。
 耕地整備で土が盛られたテッペンに一輪、堂々と咲いている。むらのひとは、「なんかあるのかい?」と、通り過ぎる。閑人には、かまっておれないそぶりである。

 グングン伸びてほしい。2020年まで。楽しみだ。