むらの幸福論

暮らしのちいさなところに眼をむける。

川には老後はないのか?

 自然の川は生きている、という。

 私の住む集落の川は、20年まえから魚が棲息しなくなった。源流のちかい、のに。イワナは子どものときに眺めたきりである。川は生きているか。もはや、機能をはたしていない気がする。ただ流れているだけ。そんな気がする。

 川には老後はないのか。そんな気さえする。

なぜ、肥料を使ってまで野菜をつくるのか、不思議だ


 自力で野菜を作って不思議なのは、高い肥料を買ってまで、栽培するのか、ということである。

 ぼくは、肥料は一切やらない。すべて生ごみである。そもそも、土壌が痩せるから、野菜は自分のちからでは育つことができないのである。肥料がかかせなくなるわけである。冬場、土に生ごみを混ぜて肥よくな土壌を育てるのである。

 このことは、地域もおなじことがいえる。地域が痩せると、地域の経済を回せなくなる。「外」から補助金助成金を足す、ことでしか成り立たなくなる。

 土壌は、不思議なもので、肥料をやればやるほど、痩せ細るのである。農家のひとは、気がつかない。いつまでも肥料をやる。そして、あの黒いシートを張って呼吸できなくする。

言葉は手仕事

 言葉は手仕事である、ことを教えてもらったのは詩人の長田弘さんであった。

 その都度、手仕事について考える。「民芸」という言葉がある。なぜか、ずっと民芸である。おかしい。民衆がつかっていた下手物から起因するのに、貴族の芸のようなきがする。
 久野恵一さんというひとがいた。クルマの走行距離が一年間で3万五千キロ。一年じゅう全国を歩いて、作り手を指導していたプロデユーサーであった。自己流の民芸運動といった。

 手わざを伝えたい一心であった。眼力。作り手より、使い手をふやすことに手間をおしまなかった。

雪空におもう


 じっと、じっと我慢のときを待つ。

 これまでの仕事をふりかえって思うことは、自分の力なんて、ちっぽけなんですね。ひとの力が6割、運が3割、己がしたことは1割ぐらい、そんなものですね。

 活かされて生きる、ことわざ、そのもの。でも、コツコツと小さな倖せをみつけて生ききる。

電気代は使わなくても1万円はかかる

 電気代に含まれる燃料費調整額って、税金みたいなものですね。今月は8659円もかかっている。それにプラス基本料金が1650円もいることになる。合計すると、約1万円も、電気を使わなくても差し引かれていることになる。おかしなことがおきている。

情報のイメージ支配が起きている

 ネットでタダで一次資料が手に入るようになって、情報のイメージ支配が起きている。おかしな傾向である。

 端的なのは、みんなが言っていないことは、知らなくていい。みんなが「騒いでいる」ことしか問題だと思わない世情がそれである。

 現場こそが教師、である。