むらの幸福論

暮らしのちいさなところに眼をむける。

一膳24円の価値

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 哲学者の内山節さんが、東北地方の農家の勉強会で語っていた。

 「私はこれからは、農業にかぎらず、どんな分野でも、商品を半商品に変えていく関係づくりをしていったほうが面白いと思っています。そのことによって、暴力的な力を持っている今日の市場経済を、内部から空洞化させていくことができたら、私たちは今日の市場経済の支配から大分自由になることができるでしょう」(人間選書『農の営みから』に「半商品の思想」として収録)。

 内山さんは、その「半商品」の概念を、1992年に92歳で亡くなった明治生まれの経済社会学者・渡植彦太郎氏に教えられたという。

 「彼は私と会うと、よくこう言っておりました。『明治の人間は、町に半商品がたくさんあった時代を知っている。それが明治の人間の強みだ』と」

 「半商品」とは、商品として流通はしているが、それをつくる過程や生産者と消費者との関係には、経済合理主義が必ずしも貫徹していない商品のこと。買い手が値段と品質とを比較して選ぶのではなく、「この農家の米なら」「この地域の米なら」と買う場合も「半商品」である。

 米は、農家にとって極めて特殊な作物である。先祖代々の田んぼでイネをつくり、その米を家族で食べ、町にでた子や親戚にも送る。田んぼを荒らしたくないし、米だけは自分でつくったものを食べたい。

 何より、米をつくることは農家として、あるいは村人として生きる証のようなものでもある。だから、先の佛田さんがいうような「コストを無視した生産」もなくならないのである。

 とはいっても、米は商品でもあるから、赤字ではきびしい。そこで、「1膳24円」の価値を食べる人と共有しながら、再生産できる仕組みを地域でつくっていく。

 農家にとっても食べ手にとっても米は強力な「半商品」である。そこにはたしかに「商品を半商品に変えていく面白さ、市場経済を内部から空洞化させる可能性」がある。