むらの幸福論

暮らしのちいさなところに眼をむける。

養老先生を読む・・・②

 昼すぎ、山形の詩人・星寛治先生(84歳)に電話で「農民主体の農業とは」について、1時間ほど聴く。
 的確なこたえが聴けた。近著をよむことにする。ひとりひとりが役割りと、責任を自覚して、みずからの現場で主体的に生きることだ。与えてくれるものを受け入れる対応型では、緊張感がない。

 脳がゆるんだところで、養老先生の本をよむ。

 人間は、あたまのなかでは理性的に「移民」をうけいれるべきだ、と考える。欧州はひとまず、理想主義でのりこえた。ドイツのメルケルさんが典型だ。が、いきすぎると、その社会をつくってきた歴史、伝統といった本質的なナショナリズムまでが崩壊の危機にあう。「感覚」や「感情」の反発がおきる。

 「意識」は、世界からノイズを排除し、均質化しようとする。逆に「感覚」は細かな差異をかんじとり、きわだだせる。だから、片方の働きがひずみに強まれば、その反動がおきるのは自然なことである。移民をめぐる問題でも、兆候は世界のアチコチでおきる。

 ひとりの人間には「意識」と「感覚」のふたつがせめぎあっている。感覚は「いやなものはいや」という。この「いやなものはいやだ」ということが、倫理観の基本にある。

 たとえば、日本では「なぜひとを殺してはいけないのか?」と、問われれば、本質的に「ダメなことはダメ」と答えるしかない。理屈はない。

 だが、異文化の流入となれば、根本的な倫理観の枠組みまでがくずれる。