むらの幸福論

暮らしのちいさなところに眼をむける。

フロンティア魂で、鳥取大山に日本一のむらをつくった三好武男さん

 中国地方の最高峰、大山(だいせん)の北側千百六十ヘクタールの高原にひろがる「香取村」。香川県の「香」と鳥取県の「取」をとった、香川県出身者たちによる開拓村である。
 日本戦後史のなかでも成功した貴重な開拓団といわれる「香取開拓農業協同組合」を、入植から五十年統率してきた。一線を退いた今は名誉組合長だが「団長さん」と慕われ、訪れる人はあいも変わらずひっきりなしである。来し方を振り返り、拠って立つところをみつめて、さらなる五十年を腐心する。
 「香取の村づくりは、百年計画。三世代かけての大事業で、やっと折り返したところですな」
 三好さんら一世の時代は終わり、目下の中心は二世。そして、三世を引っ張り込めるのか…大きな試練である。今の子どもたちは「上の学校に行ったら農業を嫌って帰らない」のが現実。三好さんも「これが一番アタマが痛い」と言う。
 「彼らに農業の良さ、楽しさが分かるような哲学、思想を伝え、集中体験させるような実践運動が急務でしょうな」
 今でこそ見渡すかぎりの牧草地が広がるのどかな香取だが、その始まりはひとを寄せつけぬ未開の山林原野だった。
 「生きる、死ぬの際を歩いて、最悪の条件をくぐり抜けて、無一文でここに入ってきた。カネもうけのための農業ではなく、人間の喜びとは何かを模索する”精神の開拓“を目指してやって来ました」
 やや早口で、顔をしかめたり、哄笑(こうしょう)したりで、飽きさせない。
 事あるごとに「金や物が目標では、儲からぬとやめる。地価が上がると土地を売る。ぜいたくな生活がしたい。開拓とはそういうものではない」と口が酸っぱくなるほど説く。
 「ほどほどの金はいるが、ここで自分の土地を持って農業をやっていたら死ぬことはない」
 精神論のようにとられがちだが、確固たる裏付けがあっての「経営方針」であった。中国での農業体験が生かされていたのである。
 一九三九(昭和十四)年、香川県栗熊村の村人だけで開拓団を組織し、中国東北部へ渡った。二十八歳の若きリーダーであった。村の土地は狭かったため、分村して旧満州に移住するのは、次男、三男が分家するように、ごく自然なことだった。
 「人の世話をする人間になれ」と村長に励まされ「オレは新しい村を創るんだと志を立てた。移民は日本の国策、時代の波に乗ったものだった」と振り返る。
 入植した旧満州の開拓村は、一万五千七百ヘクタールもの広さだった。三分の二近くの田畑は開墾されていた。一世帯当たりの耕作両横は五ヘクタール。稲作もあり、牛、馬、豚、羊などの家畜を飼育した。
 「大型農業は素晴らしいの一語につきる」 と述懐するように、平穏無事な暮らしであったが、突然「天と地がひっくり返った」のだ。 敗戦である。
 八月から十か月間は難民生活。三好さん自身も、ソ連兵に銃殺されかけた。死と背中合わせの毎日だった。収容先では、シラミが媒介する伝染病・発疹チフスで年寄り、子どもを中心に団員の半数約三百四十人が死んだ。
 遺体は裏山や溝に、積んでおくだけだった。三好さんの三女も一歳になる前に亡くなった。 一九四六(昭和二十一)年、無一文になって四国の綾歌町に帰国。翌日から早速、国内での新たな開拓地探しに走り回る。南米や北海道も脳裏をよぎった。九州の山から山へ二十日問歩いて、たどり着いた先が鳥取県の大山山麓だった。カヤが背丈ほど伸び、松林がうっそうとしている広大なジャングルだったが、ひと日見て「ここだ」とひらめいた。
 着飾らない夢追い人生
 大陸での大型農業の体験から「水田中心の細々とした日本の”アヒル農業“から畑作畜産大型酪農業」の村づくりにとりかかった。
 同時に、土地配分は自給農地と宅地だけを個人所有、あとは採草地、林地を含めて組合所有とした。個人四、組合六の割合で組合主導型とした。
 「もし全部を個人に分割していたら、あのバブル期にどうなっていたやら。香取はスキー場を核に観光、レジャー施設で埋まっていたかも知れん。いまだにしつこくスキー場を五百億円で売ってくれ、と企業から言ってくるんだから。金こそ大切という誤った考え方がはびこり、何をやってもカネをもうけりゃいい、金さえあれば何でもできるという世の中になった」
 気骨の開拓者魂は衰えを知らない。
 「カネやモノを追うのではなく、喜びのある社会、人間中心のまっとうな社会に早く戻さんとね」
 友禅の絵師になるのが夢だった絵心を生かして、香取のキャンバスにこれからの五十年をどう描くか。
 「まず自然を大切にして観光都市化せず、全村を公園として環境整備する。食べるものを生産するのだから、住民はつねに健康で勤勉であること。ごちそうを食べて遊んで、着飾ることはよろこびでない。カネを欲しがらない」
 故郷の香川県からは女子学生たちが「先進地留学研修生」として毎年、香取の酪農家を訪れる。七年前から小学生同士の交流も始まり、毎年の入植式には有志約三十人が欠かさず参列する。
 さらに、香取が計画して受け入れている中国からの農業研修生も、県下に招いている。中国-大山・香取-香川を結ぶ三角形の架橋である。
 「開拓は永遠の仕事。ゴールはない。人間夢追い人生でなくちゃ」
 『有夢人生』の書に手を合わせることから三好さんの一日が始まる。


 ※ 三好さんは2005年12月8日、
   死去されました。95歳でした。