むらの幸福論

暮らしのちいさなところに眼をむける。

問題への模索

 「なぜ」「どうして」というあれこれの好奇心。

 問題は、そうした好奇心を母胎に、心の中からわいてくる。

 外から一方的に与えられるものだけが「問題」なのではない。

 「問題」は、それぞれの人間が”つくる”べきものなのである。テレビはなぜ見えるんだろう、と考えた子どもは、そのとき、見事にひとつの「問題」を自分でつくったのだ。

 自分で「問題」をつくり、かつ解くことーーそれこそが精神の自律性だ。

驚き。Yahooニュースの目配り

 Yahooニュースも、細かなところまで目配りするようになって、おどろいている。

 沖縄県宮古島市の大神島の自治会が、島の歴史や伝統文化などを記録した生活誌「ウプシ」を出版した、というのだ。

 県、市レベルの「自治体誌」を20年ほど編集しているわたしにとっては、ありていな表現だが、快挙といえる。平成の大合併いらい、自治体は、「県史」「市史」「町史」「村史」から「区史」さらに「町内会史」を続々と出版してきた。

 これからは、高齢化によって存続が危ぶまれている「集落」の「史」ではなく「生活誌」の出版が、急がれている。

 それも、聞き書きでの記録誌が求められている。

 大神島の世帯数は15、人口は約30人。島内外の人たちが島の将来を案じ、足かけ5年を費やして長老から聞き取り調査を行ったという。

 生活誌にはウヤガンの様子が詳細に記されているほか、神事の際に歌われるアーグ(神歌)の「うふぷなかの歌」が初めて活字で記されている、とある。

さりげない持続

 コンディションが悪いと、どこかが狂っていて、すぐに落ちてくる球しか投げられない。

 あるいは、無意識のうちに山なりで投げることをやめてしまい、真っ直ぐに普通に投げる。

 感覚が冴えていないのである。

 距離感が悪い、といってもいい。

 山なりに軽く投げて相手に届かせるためには、正しい距離感が必要だ。

はんなりした生きかた

 ひとの生きたかには、いろんな評価軸があっていい。引き出し(価値軸)とおいかえてもいいだろう。

 例えば、「社会に貢献すること」も、価値のある生きたかである。「仲間がたくさんできること」も、豊かな人生につながる。

 「知識や経験が増えること」も、大切である。

 何かを表現する仕事をしていれば「賞をもらうこと」で、励みにもなろう。

 引き出しは、成長を実感するためのアンテナのようなものだろう。たくさん持っていたほうがいい。そして、いくつもの引き出しを組み合わせながら、個人の生きかたや、コミュニティのありかたを考えていくことが、「幸福」をみつけるための仕組みになるような気がする。

 目的や思考を固定せず、いろんな引き出しを持っていれば、充実して暮らすことができるような気がする。

ひとの口がやかましい

 生きていれば、必ず失敗したり、たたかれたり、何かがある。そんなとき、家族の支えがいちばん必要になる。

 元気なときには気づかないけれど、支えるほうも、支えられるほうも、病気になればお互いのありがたさが身にしみる。

 失ってみると、その存在の大きさがしみじみわかる。

 樹木の年輪と同じで、人間もいろんな経験を積んでことわかることがある。

わかってるのかな

 なにかを語り伝えたいと願うときとは、きっとなんらかの変化が起きたときである。

 喜びか、悲しみか、驚きか、定かではない。

 とにかく、永遠に続くかと思われた日常のなかに非日常性が忍び入ってきたとき、その出来事や体験について、誰かに語りたくなるのだ。