むらの幸福論

暮らしのちいさなところに眼をむける。

宮本輝さんも愛用する万年筆

 チチッ、シェーン。華やかな店内の奥まった工房から、ロクロで万年筆の軸を挽(ひ)く音が聴こえてくる。ガラスで隔てられた畳一畳ほどが仕事場である。お客さんには見向きもせず、黙々と指を走らせる。

 ペン先から軸までこなすオーダーメイドの万年筆職人の田中春美さんである。

 鳥取市の目抜き通りにある「万年筆博士」は、全国に知られた手づくり万年筆専門店である。おもねりを排し、かたくななまでに個性、品質を追い求める。現在は国内外に約五千人の顧客をかかえるが、地歩を築くまでは平坦な道のりではなかった。

 「万年筆博士」の屋号が初めて看板となったのは一九二八(昭和三)年、中国東北部大連である。山本雅明社長の父で、万年筆職人だった義雄と弟の定雄が製造・販売を手掛け、一九四六(昭和二十一)年に義雄が現在地に店舗を構えた。

 田中さんが入店するのは、一九五二(昭和二十七)年。中学卒業前に父親を亡くし、経済的に高校進学が無理となり、友人の紹介で住み込みで働くことになった。
 「好き嫌い?そんなことは言ってられませんでしたね」

 温厚な顔がふいっと曇る。

 「弟子になって最初は、パフ(羽布)掛けという磨きの仕事でした。朝から晩まで、怒られたり叩かれたりしながら、回転する布製の円板に万年筆の軸なんかを押しつけて磨き光沢を出すんです。粗磨きと仕上げ磨きとがあり、二年間は毎日それだけ。辛かったのは、爪を一緒に磨くためにすり減って、爪の神経が出る寸前くらいになる」

 マニュアルはない。兄弟子の技を盗み覚えるしかなかった。
 「十年たってようやく免許皆伝となった」 というのがねじ切り。内ねじより目に触れる外ねじ、さらにキャップを締めるねじは職人の腕が問われる。

 キャップのねじは「ヨヤマ(四山)」というねじを切る。素早くキャップが締められるようにするため、四か所のどの山からねじを入れても締められる。どの山から締めてもキャップはガタつくことなく、寸分の狂いもなく本体に納まる。ねじ切りは、ロクロの動力をモーターから足踏みに切り替え、息を止めて行う。

 「まったくの勘だけを頼り」に、ヒトヤマねじで三年目、ヨヤマねじで十年目にして、初めて手掛けることができる。職人技の本領である。

 万年筆が一本出来上がるまでには、二百六十工程も費やされる。最後、「年季だけ」なのが、ペン先の研磨である。現在、ペン先は「万年筆博士」仕様を設定して国産メーカー二社に依頼。素材は14金を守っている。ほどほどの弾力、耐久性もあり、ペン先には最適な素材なのである。

 「生命」といえるペンポイント(ペン先の先端)には硬度の高いイリジウムが付着している。このイリジウムの研磨の仕方によって書き味が変わってくる。

 「ペン先の調整には全神経を集中するため、午前中の、しかも必ず力仕事の前にやります。神経を使いますから一日に一本から二本しかできませんね。めったにないですが、気が乗らなかったら止めてしまうときもあります」

 ペン先を親指の爪に当てて、かすかに力を入れて調整する。両手の親指と人差し指、そしてこの四本の指の爪は道具である。四本の爪はつねに一定の長さに伸ばし、短く切ることはない。

 今でこそ順風満帆の業容だが、転機があった。雅明社長が大学を出て、東京の万年筆メーカーで四年間営業し、帰郷して社業を継いだのが一九七〇(昭和四十五)年。当時はすでにメーカーによる大量生産ブームで、手づくり品は片隅においやられていた。メーカー品の手直しに終始する時期もあった。

「転業することすら考えた」(雅明社長)が、田中さんの技を生かして「世界に一本しかない万年筆を作ろう」と奮い立った。一九八二(昭和五十七)年のことだ。「HAKASE」ブランドの本格派オーダー万年筆を発売することにした。

 秘策のひとつに、独特の注文書(カルテ)を考案した。デザインのほかにグリップの位置、利き手、書く時に横から見た万年筆の角度と真上から見た傾斜、筆圧、筆速の項目などがある。さらに、万年筆で住所と氏名、電話番号を三回繰り返し書いてもらう重要な「筆跡鑑定」もある。

 カルテをもとに、使い手の書きクセを分析しつつ田中さんの蓄積した全技術を注いで、一本一本丁寧に仕上げられる。

 「使ってくれる人のことを思いめぐらしながら作っていくんです。例えば、職業から判断したり、来店して注文してくれた人にはその人となりまで詳しくうかがう。そういう情報を生かして作るから一本たりとも同じ万年筆は生まれてこない、ということです」
 製作期間は今で、約六か月。二年前までは十か月から一年かかっていた。

 作家の宮本輝さんは「どんな筆記用具を使うか」との読者に応え、こう記す。

 鳥取市内に「万年筆博士」という、腕のいい職人さんの手づくり万年筆の店があって、そこで一本つくったのを見せてくれたんですよ。はじめから筆圧とか、ペンの振り方とか、手癖みたいなものを全部考慮してつくってくれるから、もう手に慣れているんです。万年筆は、慣れるのに相当時間がかかるじゃないですか。それがないだけでも楽ですよと言われて、そこで注文したら、非常にいいものをつくつてくれたんです。それで、はじめ二本つくつたんですけど、もう今はそこでつくった万年筆を、軽井沢の仕事場にも置いておきたいし、それからどこかに移動する時にも持っていきたいしで、結局、全部で十本ぐらいつくりました」(『新潮四月臨時増刊宮本輝』一九 九九年四月)

 「いい加減な仕事はできない。悪い評判は良い評判より何倍も早く広まる。だから、重要な作業になると、店に来られたお客さんが声をかけてくれても返事ができない」

 凛とした口調で語る。

 「珠玉のような万年筆が欲しい」という顧客のため、時間と情熱を費やして作る。夜、ふとんの中でも、まぶたに新しい万年筆の意匠をめぐらせて倦(う)まない。つねに製作の一か月前からアイデアを練っている。

 「材料とかたちがマッチした素晴らしい出来映えに、思わず手元に置いておきたくなるようなペンもある」と苦笑する。そうした万年筆は、娘を嫁がせる親の心境になって、写真に納めて残す。
 パソコン全盛の時勢だが、全国各地からオーダーはひっきりなしである。風邪をひくことすらできない。
 朝十時から昼食をはさんで夕方七時まで工房に詰める。

 年に一回、同社が東京で行う万年筆交流会に参加する。自らが精魂込めて作った万年筆との再会と、使い手の生の声を聞くのが至福のひとときである。

 「お客さんの万年筆を見て、パフで磨いた新品のままの艶が残っていたり、艶が消えていたりすると幻滅する。使い込み、手の脂で新品とは違った艶が出ていると『やった』と思う」

 道具としての万年筆へのこだわりだ。
 「飾ってもらう万年筆ではなく、使ってもらう万年筆」への職人魂は、今ではほとんど見られなくなった民芸の精神と相通じる。
 「手づくりオーダーメイドを始めて十八年になるが、だめになった万年筆は一本たりともない。もうそろそろ、使い過ぎて壊れてしまったという声を聞いてみたい。その時が一番嬉しいだろな」

 柔らかな笑みになった。

 山本社長は、キッパリと言う。
 「IT社会だろうが、インターネットで商品は売らない。作り手と使い手の顔の見えるものづくりに徹する。世界でナンバーワンの品質と、オンリーワンの個性を作るのが夢です」

 田中さんは、その後、退職されている。