30年後、50年後の姿を描くことが難しい集落が多く存在する。
「過疎化」と「高齢化」というおなじみの言葉が今なおずっしりと集落にのしかかり、ますますその重みを増しつつある。
農村集落は地域の人々のたゆまぬ努力によって、農地、山林をはじめすべての農村空間を適切に維持・管理してきたという長い歴史を持っている。 あたかもそれが当たり前のことのように...。社会構造が大きく変化した今、当たり前のことを繰り返し行うことが難しい状況になりつつある。
「この集落には子どもが一人もいません」
あちこちの集落でよく耳にするフレーズである。「今はなんとか今まで通りのことがこなせているが、さて10年後、20年後はどうなるだろうか?」
率直な疑問が地元から頻繁に発せられている。 「すでに覚悟を決めている」と本音とも冗談ともとれる言葉すら耳にすることがある。 このような集落では物理的(経済力・労働力)・精神的両面において、既存の活性化策が簡単に適応できない事例が多い。
その一方で、小規模集落であっても活発なコミュニティを維持し、元気に活動を続けている集落が存在することも事実である。
農村地域は、まさしく、その地方の独特の個性を育みつつ、営々と次代に受け継がれてきた。歴史と空間に紡がれながら今がある。
それぞれの地域にはそれぞれの顔があり、それぞれの住民の想いがある。
それでは今の姿からどのような将来が見通せるだろうか。 地域が培ってきた美しい自然や景色、華やかな文化、生き生きとしたコミュニティは将来どこに向かっていくのであろうか。
条件の厳しい農山村の集落に対して、小田切徳美・明治大学教授は「人、土地、ムラ」という現象的な空洞化に加えて「誇りの空洞化」という住民の精神的な問題がその根本に潜んでいると指摘する。
心の問題は、生きがいづくりへの意欲の向上、集落の新たな動きの創造などにつながる。すなわち地域の活性化の原点(元気の素)であると捉えている。
農村集落をどのように支えていくべきか?
むらとともに歩んでいつも感じることがある。 なかなか次の一手を打つことができない状況であっても、むらに対する住民の想いは決して色褪せてはいないということである。
たとえ表面的には悲観的であっても。むらにとって何が正しいのか、何が間違っているのか。
「新しいむらづくり」などという言葉を使わず、むらびとが知恵を出して「モノサシ」をつくることである。
どこにもない、そのむらだけの、考え方のモノサシ。